遺影

さく: ねこぽん

まえがき

 こんにちは、ねこぽんと申します。

 今回が第二弾になりますが、こんなのも書けますよというデモ程度になってます。重たい。
では、ごゆっくり。

1

 寒い朝。
「うっす」
「ういす」
「おはよー」
「……ああ、おはよう」
いつものように交わす、朝の挨拶。何も変わらない朝がやってくる。それがどんなに幸福なことか、そのときの俺は知らなかった。

「起立、礼。着席」
「みんな、おはよう。朝礼を始める」
担任の声がする。俺はまだちょっと寝ぼけている。
「今日は転入生を紹介する。入れ」

「……転入生ねえ。和人、知ってたか」
となりの慶太郎が俺に聞く。
「いや」
「そうか。俺もだ」
「ならいうな」
「この時期の転校生というと、美少女というのがお約束だよな」
「おめーだけだ慶太郎っ」
しかし、扉を開けて入ってきたのは、女の子だった。
「……ほう」
「む」
人見知りするのか、うつむいたまま。
「お約束も捨てたものじゃねえな、和人」
慶太郎がにやりとする。

「この子が転入生の杉浦かすみさんだ。みんな、よろしく頼むぞ。かすみさん、挨拶を」
「は、はい。えと、今日からこの学校にお世話になることになりました、杉浦かすみです。よろしくお願いします」
彼女がぺこっと頭を下げる。
「はいよー」
「うるせえ慶太郎」
慶太郎の合いの手に上がるブーイング。まあ、お約束だな。
「席は……和人、おまえの後ろでどうだ」
「あ、はい」
……そういえば机が増えていた。相当な間抜けだ俺。
「じゃあ朝礼は終わり。解散」

 彼女がてくてくと歩いてくる。
「かすみちゃん、よろしく」
手を出そうとする慶太郎の足を踏み付けてやる。
「ふぎゅっ。てて、和人、なにするんだよ」
「いちいち手を出すなっ。みっともねえ」
「……あ、あのぅ」
どうした?
「と、通れないんですけど」
ふと見ると、俺の足が慶太郎のところまで伸びているせいで、もろに彼女をブロックする格好になってしまっている。
「お。こりゃ悪かった。通ってくれ」
俺は足をのけた。
「あ……いいえ」
彼女はぺこりと頭を下げると、俺の後ろの席へ座った。
「ついでだから自己紹介しとこうか。俺は杉浦和人。和人でいい。で、このバカが杉浦慶太郎」
「バカゆーなてめえ」
慶太郎がどなりかえす。
「バカじゃねーか。こないだの中間はどーだったよ」
俺も黙っちゃいない。
「……うが」
「あ、あのぅ」
俺たちがバカな掛け合いをやっていると、彼女がいぶかしげな顔をする。
「あなたも、杉浦さんなんですか?」
……もっともな質問だ。
「ああ。慶太郎もだ。慶太郎、ためしにあれやってみるか?」
「あれ? あ、ああ」
慶太郎も心得たものだ。
「……何ですか?」
彼女が首をかしげた。
「見てな」
慶太郎と俺はそういうと、一言、
「おい、杉浦」
と呼んだ。一斉に声が上がる。

「はい」「うん?」「おー」「えー」「なんだー」「は、はいっ!」

「……えええ?」
ま、いきなりこの状態になれば混乱もするだろう。6人も返事するんだから。
「なんだ和人」
「呼んでみただけ」
「……なんだ、また新人いぢめか。いちいちやるなよお」
由記彦から文句が上がる。毎回っていうほどやってないつもりなんだが。

「あ、あのう」
彼女がおどおどとたずねる。
「こ、こんなにいらっしゃるんですか?」
「ああ。なにせ、このクラスだけでも、9人いるからな」
「……そうなんですか」
彼女が興味深そうにうなずく。
「まあ、そういうわけなんで、『杉浦』っていうとだれだか全然わからない。だから名前の方で呼ぶが、いいよな」
「あ、はい」
かすみがうなづく。
「かすみちゃん。これからよろしくね」
慶太郎が手を出す。俺はその手をはたきながら、
「慶太郎、おめえは今日当番だろう」
と突っ返す。
「……けっ、和人。こういうときだけそういうツッコミしやがって」
ぶつくさ言いながら、慶太郎が当番帳を取りに行く。
「いなくなったところで……俺は」
「和人くんね」
そういう呼び方されるのは好きじゃないからな。
「いや、和人でいい。俺もかすみと呼ぶけど」
「はい」
そういうと彼女は、にこっと微笑んだ。女の子らしい、可愛い笑顔だと、そのときは思った。

 それが違うのだということに気がつくまで、どれだけの時間を必要としたのだろう。

2

 午後の授業は眠い。だれしも眠いだろう。特に数学の授業、その上、お経を読むような調子で教科書を読み上げるだけの、使えない教師の授業で起きてろってのは、もはや拷問ですらある。
「くー」
慶太郎のやつはすっかり寝ている。知らないぞ。
「慶太郎、この問題解いてみろ」
……ほら、来た。
「慶太郎?」
「寝てますねえ」
いびきかいてないだけましか。
「……しゃあねえな」
あとでこってり絞られな、慶太郎。
「じゃあ和人、代わりに」
ゐ!?
「な、なんでですかぁ」
「となりに座ったのが不幸だったな。解けるだろ」
「あ、いやその」
しまった。俺も半分寝ていたからな……。ど、どの問題なんだ……
「和人、問題9」
……後ろから声がする。かすみだ。
「問題9だよ」
「……サンクス」
かすみ、すまん。
「は、はい。問題9は……」

「いやー。かすみのおかげで事なきを得た。助かった」
「ううん、いいよ」
俺が礼を言うと、かすみは少し微笑んだ。
「俺は助からなかった……」
慶太郎がぐったりとした顔でいう。いうまでもなく、たたき起こされ、こってりと絞られたあとである。
「そりゃああれだけぐっすりお休みではなあ。自業自得だ」
「くす」
かすみが笑う。
「くは、かすみちゃんに笑われちゃったよ」
慶太郎が悔しそうに言う。
「あ、ごめんなさい。そんなつもりじゃ」
かすみがフォローしようとする。しかし、俺としてはそれは困る。
「悔しいか慶太郎。ま、笑われてもしょうがねえわな。なにせ俺までとばっちりが来たからな、多少は言わせてもらうぞ」
「くーっ」
慶太郎が地団駄を踏むが、もう遅い。

「……あ、もう次の時間か」
休みなんて短いものだ。
「とにかく助かった。ありがとうな」
もう一度礼を言うと、かすみは
「うん」
と微笑んだ。

3

 放課後、かすみに呼び止められた。

「和人、今日は……その、ありがとう」
かすみがぺこっと頭を下げる。
「何が?」
「えと、いろいろ。……わたしまだ、この学校とかのこと、何にも知らないから、これからいろいろ教えてください。よろしくね」
「……ああ。よくわからないが、その程度のことだったら、別にかまわない」
「こっちこそー」
やっぱり出てきたか慶太郎。ま、隣だし仕方ないな。
「あ、慶太郎くんも。よろしく」
かすみが微笑む。
「かすみちゃん」
にょろっと慶太郎の手が伸びるところを、力をこめてはたき落とす。
「だから手を出すな慶太郎。みっともない」
「がっ! ……ててて、そんな力入れなくてもいいだろ」
「だったら手を出すな」
にらむ慶太郎ににらみ返す。
「……あーあ、はいはい」
「慶太郎、そういえばおまえ当番だな」
「くっ。わかったよー」
あからさまに後ろ髪をひかれつつも、慶太郎が黒板に向かう。
「……痛そうだよ」
かすみがちょっとだけ心配そうにいうが、
「いつものことだ。気にするな。違うな、気をつけろ」
俺は軽く返す。
「き、気をつけろって……」
「慶太郎はああいう男だ。注意するに越したことはない」
「……」
かすみはきょとんとしている。よくわからないのだろうか。

「……俺は帰るよ。じゃあ、また明日」
「あ、はい。また明日」
別れ際に、かすみが手を振ってくれた。俺も振り返した。

 俺は知っているべきだった。こんな小さなことが、とても幸福なことだったんだ、ということを。

4

「ただいま」
「……」
返事なんかない。

 俺は、妹の雪子とふたりで暮らしている。雪子は今日、部活で少し遅くなるといっていた。
「……とりあえず、飯にすっか」
ふたり暮らしだから、飯も自炊しなくてはならない。飯の当番は、基本的には早く帰ってきたほうがやることになっている。
「キャベツ、人参、卵、玉ねぎ……うーむ、チャーハンか」
バリエーションの少なさが俺の欠点だ。いい加減飽きがきてるのだが、なかなか増やす機会などない。それに引きかえ雪子は、シンプルだがうまいものをいつもいつも作ってくれる。それに、ときどき驚くようなものを覚えてきて、作ってくれる。あれは、すごい。

「ただいまー」
ほかほかのチャーハンができあがった頃、玄関から声がした。雪子だ。
「……おかえり。飯、できてるぞ」
「わ、ごはんごはんー。今日はチャーハンだね?」
「ああ」
「いいにおいだよー。すぐかばん置いてくるね」
……ぱたぱた、と廊下をかける音がする。
「ごはんごはんー」
雪子の顔がのぞく。あいかわらず、無邪気なやつだ。
「いいタイミングだな。ちょうど飯だ」
「うん」
こぼれそうな笑顔が、そこにある。

「慶太郎お兄ちゃんに聞いたんだけど、お兄ちゃんのクラスに転入生が来たんだって?」
「あ、ああ」
どこからそんな話を仕入れてくるんだか、雪子はうちの学校の話に妙に詳しい。
「しかも女の子だって?」
「ああ」
「どんな人だった?」
「……慶太郎に聞いたんだろ」
正直、そんな話などしたくないのだが、雪子は意にも介さない。
「お兄ちゃんにも聞きたいんだよ。だって、慶太郎お兄ちゃんってば、どんな女の子にも『かわいい』っていうんだもん」
「慶太郎だなあ……」
慶太郎にも困ったものだ。どんな女にもとりあえずちょっかい出してみる悪癖だけはやめた方がいいぞ。うちの雪子にまでだしやがって(って、これは余談だ)。
「そうだなあ……。とりあえず、女子だ」
「それは聞いたよー」
「といってもな。これといって特徴もないようだしな」
「かわいかった?」
「……なっ」
雪子、おまえときどきとんでもないことを聞くなあ。
「あ、お兄ちゃん赤くなってるー。かわいかったんだー」
「お、おい雪子」
「えへー。お兄ちゃん、よかったね」
……これで何の邪気もない笑顔を向けられてみろ。どう答えればいいんだ?
「だからだな……」
「だって、その人ってお兄ちゃんの後ろの席でしょ? 毎日顔を合わせるんだよね。だったらかわいくない子より、かわいい子のほうがいいよね」
「……」
はたしてそうか? 俺には大いに疑問だ。
「雪子……飯、冷めるぞ」
「お兄ちゃんごまかしてるー」
「黙って食え」
「うー」
俺は、まだ何か言いたそうな雪子を目で制すと、もくもくと冷えたチャーハンを口に運んだ。

5

 飯が終わると、勉強タイムだ。たまには俺も、雪子の宿題を見てやったりしている。
「ふにゃー。ねむい」
雪子の目がもうとろんとしている。
「あと少しだろ。寝るなよ」
「うーんー……」
しょうがないな。わしゃわしゃ、と髪を撫でてやる。
「わ、起きた起きた」
雪子の目が、皿のように丸くなる。
「起きたか。あと少しだから」
「うん」
雪子が、えへっ、と笑う。

「終わりー。ねむい……」
雪子のほうがさきに終りにするらしい。俺にはまだ少し……いや、全然少しじゃないが、宿題が残っている。
「終わったか、宿題」
「うん。一応片づいたよ」
「じゃあ、先に風呂入って寝ろ」
「……お兄ちゃん、先に入って」
雪子も、いらんところで気を使うやつだ。
「いい。俺が片づけるから」
「うーん、でも今日はごはんもお兄ちゃんだったし」
「いいから寝ろ」
「……わかった。じゃあ、お兄ちゃん、あとおねがいね」
雪子がぱたぱたと出ていく。
「ふう……」
俺はため息をつく。……くそ、なんでこんなに宿題があるか。

 ……深夜。雪子はもう寝ているはずだ。あいつの寝付きのよさというのは、特筆すべきものだ。履歴書にも書けるぞ。……というのはともかく、俺の宿題もなんとか完了した。
「終わりっと……。風呂入って寝よ」
……独り言が増えたな、俺。

 風呂の中で考えてみた。
「かすみ、か……」
気にしすぎても仕方ないのだが、引っ越してきたばかりでは、不安もあるだろう。俺と慶太郎の前ではよく笑っているようだが、他の連中の前ではまだあまり笑っていないような気がする。……たまたま俺はかすみの近くに座っていただけだ。早く、他の女子となじんでくれるとありがたいのだが……。
「……俺の考えることでもないのか」
こればっかりは個人個人の考え方次第だしな。

6

 翌朝。
「おはよう」
俺が教室にはいっていくと、まっさきに挨拶してくれたのは、かすみだった。
「あ……ああ、おはよう」
「うん? どうかしたの?」
「いや。……朝、早いんだな」
「うん、遅刻するといやだから、ちょっと早めに来てるの」
「ほう」
いい心掛けだな。
「まだ、通学路になれてなくて、時間が読めてないの」
……そういうことか。なるほどな。
「でも、なれちゃうときっとギリギリにしか来ない気がする。だって、前の学校でもそうだったもん」
「ってそういうことかい」
「えへっ」
面白いお嬢さんだ。てな話をしていると、
「……はあ、はあ、はあ、あー、お、おっす」
慶太郎が飛込んできた。
「うす、慶太郎」
と、俺が挨拶を返すまもなく。
かーんこーんきーんこーん。
「ふへー……ぎりぎりセーフだぁ」
そして慶太郎は、席に着くなり、机にへたりこむ。
「もうちょっと早く来いや。ったく毎日毎日」
俺が慶太郎に文句をいうと、
「……毎日なの?」
かすみが聞く。
「まあ、毎日だな」
俺が返すと、
「……くそー、毎日いうな」
慶太郎からブーイングが上がる。
「毎日じゃねーか。終業式以外」
俺が突っ込むと、
「……終業式って?」
かすみがさらに聞く。
「ああ、こいつ、休みの前になると元気なんだよな」
俺の返しに、
「そうなんだ。ふふっ」
かすみが笑った。

 がらっ、と扉の開く音がする。
「あ、先生来たね。今日も一日、がんばりましょう」
「ああ」
……かすみというやつは、前の学校でも、こんなやつだったんだろうか。

7

「和人」
昼休み前、俺は文月に呼び止められた。
「……なんだ文月」
葛城文月。この辺では知られた、いいとこのお嬢である。あいもかわらず、ツレといっしょだ。
「なんだはないでしょ、こんなかわいい女の子つかまえて」
「てめえなんざなんだでも十分だ。で、用はなんだ」
「……くっ」
文月が唇を噛み締める。
「あのね。和人、最近、かすみとかいう女に手出してない?」
「はあ?」
手を出すだあ? 俺が?
「なんか……よく話しかけてる気がするんだけど」
文月は俺をにらむ。
「ああ、そりゃクラスメイトだからな」
俺はつとめて平静に答える。
「……むっ」
あからさまに、文月の表情に怒りがわいてくる。
「あのね、あたしは」
「それ以上は何の関係もない。用はそれだけか?」
「和人っ」
文月が気色ばむ。
「こっちには用はない。帰れ」
「なっ……何よっ。ふん」
怒りを隠せないまま、文月がきびすを返す。
「お、おまえ、お嬢様に……」
文月のまわりを取り囲んでいた女生徒のひとりが、俺をにらみ付ける。
「サチ。やめなさい」
「お、お嬢様」
文月が一言で止める。サチと呼ばれた女生徒が狼狽を見せるが、文月は落ち着いている。
「いいの。……いくわよ」
「は、はいお嬢様……くっ」
そいつは、俺に一瞥をくれてから、文月のあとを追いかけていった。

「……和人、またやってんのか」
慶太郎だ。
「またってな……俺はやる気なんぞねえんだがな」
「おまえにはないんだろうけどな……」
慶太郎が声を落とす。
「それがいけねえんだよ。いっぺんガツンとやりゃいいんだよ」
……こいつの言うことはわかってる。
「ガツーンと……『好きだーっ』とか」
「殺すぞ泣かすぞ犯すぞ慶太郎」
予想通りすぎる。ったく。
「犯すのは勘弁。なんでだよ、あれだけの美人で実力者だぞ?」
「……おまえが行けばいいじゃないか」
慶太郎の戯言につきあう気も、やっぱりない。
「おまえは逆玉って言葉も知らないしなあ。資産家で成績優秀、それにあの美人でナイスバディ、ああ天は彼女にいったい二物どころかいくつ与えたのやら……」
なにやら後ろで喋っているが、気にしないことにした。

 俺と文月とは、小学校に上がる前からの付き合いがある。……違うな、因縁がある。

 文月は、ここいらではよく知られた、政財界の実力者の家柄だ。そのうえ美貌の持ち主でもある。さっき見た通り、いつも誰か取り巻きを引き連れている。それもひとりじゃない、複数人だ。そのうちの何人かはホンモノのボディガードとも聞く。どういうわけだか知らないのだが、文月は小さい頃から俺と遊びたがったらしい。俺が昔から煙たがっていたのも同じだと聞く。聞く、ってのは覚えていないからなのだが。

8

 静かな朝。
教室にはいってみると、ひとりかすみが、ぽつんと座っていた。
「……うす」
少し声をかけにくい雰囲気が漂っていた。
「おはよう」
消え入りそうな声で、返事が返ってきた。……俺は気づいているべきだったのだ、かすみの頬に、わずかな赤みがあることを。

 がらっと教室の扉が開いた。
「……和人」
「だれかと思えば、文月か」
小うるさいやつは、適当にあしらうに限る。
「よ、よりによってそんな言い方はないでしょっ。なんで和人がこんなところにいるのよ」
「ここは俺の教室だからな」
普通に返したつもりだったが、いらん刺激を与えてしまったらしい。文月が金切り声をあげる。
「ちょっと出ていきなさい」
「なんで俺が」
「聞く耳なんてもたないっ。出ていってよ」
……たく、昔からこいつはこうだ。

「杉浦かすみっ。ちょっと、聞いてるの?」
文月の攻撃の矛先が、突然かすみに向いた。
「は、はいっ」
……あきらかに、かすみはおびえている。
「わかってるわね」
「……はい」
「ならよろしい」
「何のことだ」
さすがの俺も、少し気になった。
「……和人には関係ないわ」
文月が俺をにらむ。
「そうだよ」
かすみの声もする。が、
「あんたは黙ってなさいっ!」
文月の叱責とも取れる声が響く。
「るせえっ。デカい声だすな」
俺がどなると、
「か、和人には関係ないわよっ」
文月もどなり返す。

「……ふん、なによ」
沈黙の後、文月は捨てぜりふを吐いて教室を出た。
「……何が、あったんだ」
小声でかすみに聞いてみるが、
「なんでもない。なんでもないよ」
かすみはかぶりをふるだけで、何も答えなかった。

 俺には、それ以上何も聞くことはできなかった。

9

 三時間目は体育だった。
「ふーっ」
授業が終了すると、次の授業のために生徒が集まってくる。当たり前の光景なのだが、その中にひとり、おかしな歩き方をしているやつがいた。
かすみだった。足をひねったのか、びっこを引いて歩いてくる。しかし、だれも助けてやろうとしていない。女子はみな、かすみを遠巻きにして歩いてくるばかりだ。かすみは足が痛むのか、ときおり眉をひそめる。
「……大丈夫か」
さすがに見ているわけにもいかず、俺はかすみに話しかけた。
「大丈夫……」
額に脂汗を浮かべながらも、かすみはかすかに微笑んで見せる。
「……そうか」
心の中で『うそつけ』と思いつつも、それを口にできなかった。そうなったら、俺の出番はもうない。俺は一言、
「気をつけろな」
とだけつぶやいた。
「……うん」
力のない返事が返ってきただけだった。

 その夜、夕食時。
「お兄ちゃん、きょう、お兄ちゃんの学校で事故があったんだって?」
雪子が俺に聞く。雪子情報網はいったいどこにつながっているんだろう。
「いや……聞いてないが」
「んもう、お兄ちゃんってば、そういう話にはいつも疎いのよね」
ぷう、と雪子がふくれて見せる。
「うん? そうか、悪かったか」
「だめだよー。でね、お兄ちゃん。事故の話なんだけど、体育の授業で、モンスターボックスを跳んでたら」
「おまえ『筋肉番付』見すぎ」
「あ、間違えた。跳び箱を跳んでたら、急に崩れたんだって。跳び箱が」
「危ないな」
「うん。それでね、跳んでた人が、箱の下敷きになってけがしたって」
「……けがの具合いは」
「幸い、軽傷で済んだって」
「不幸中の幸いだな」
……雪子の声が、ひそひそ声にかわる。
「でもね。ここからが怖いの。その跳び箱なんだけど、聞いたところによると、何本か釘が抜けていたんだって」
「……なんだって」
さすがの俺も、愕然とした。
「だから、事故は仕組まれたものじゃないか、ってうわさされてるの」
「……」
たしかに、自然に釘が抜けたりはしないからな。
「怖い話だね」
「そうだな」
「お兄ちゃんも気をつけてね」
「……雪子もな」
「うん」

 ……このとき、何が起きているのか、気をつけて観察してみるべきだったんだ。雪子の『気をつけて』というのは、そういう意味も含んでいたんだ。

10

 事故から数日が過ぎた。かすみに、とくに変わった様子はなかった。実のところ、いつも俺の後ろの席だから、ほとんど観察していなかったというべきだろう。ただときどき、鼻の頭や頬にバンソウコウを貼っていたようではある。

 初雪が降った日のこと。朝、教室に来てみると、なにやら言い争いの声が聞こえる。……いや違うな。だれかが、だれかを一方的に責め立てているような感じだ。それにしても、かなりヒステリックな感じだぞ? だれだろう。
……ちと入るのがためらわれる。少し、観察してみるか。
「あんたね、まだあいつと話してるの?」
「いいかげんにしなさいよね」
「あたしたちはあんまり気が長くないの」
「まったく、これだから転入生は」
……転入生?
「なんかいいなさいよ、いらいらするわねっ」
「あ、あの」
「口ごたえするなっ」
ぱしんっ。がた、がたがたっ……。机の転ぶ音だ。なんか、まずい事態になっているようだな。だからといって、俺の出番でもないだろう。
「……困ったな」
中はまだ騒がしい。いったい、何人でひとりを囲んでいるんだか。
「きー、まったくうっとおしいわね」
……あ、この声は文月。ということは、首謀者は文月なのか?
「わかったわね。今後いっさい、話をしないこと。いいわね」
「……」
「わかったら返事なさいっ!」
「は……はい」
「きーっ! くちごたえするなーっ!」
おい、ムチャいうなよ……がらがら、がしゃんっ。……ったく、なにをやってるんだ?

 がら。
扉が開いた。
「……あっ」
出てきた女子生徒が、俺を見て動揺していた。間違いなく、文月だ。
「何やってんだよ」
「な……なんでもないわよ」
あからさまに動揺しているのがわかる。俺でもわかるくらいだから、相当なものだろう。
「なんでもないんなら、俺は教室に入るぞ」
と、扉を開けようとすると、
「ま、待ってっ!」
と止める。
「……なんだ」
「え、あっ……い、いいえ、その」
何か戸惑いを隠せない文月。
「なんでもないんだろ」
俺も多少、虫の騒ぐところがないではなかったが、とりあえず扉を開けてみた。

「……かすみ」

 文月のツレ連中が、かすみひとりを囲んでいた。
「ほう……何をする気だった?」
「あんたにはっ」
そのうちのひとりが俺に向かってこようとするが、それを文月が止める。
「やめなさい! 彼には何もしないで」
「で、ですがお嬢様」
「いいの。……とりあえず、引き揚げましょう」
文月の一瞥で、取り巻き共が静まり返る。そして、かすみに侮蔑の視線を送りながら、教室を出ていった。
「……あいつらいったい、何をやっているんだ?」
微妙に気にならないでもなかったのだが、俺がくちばしを挟むとよけいにまずいことになりそうだ。これはあくまで、かすみと文月の問題、なんだろう。

「かすみ?」
俺は床にへたりこんでいるかすみに声をかけてみた。
「……」
答えない。

 ……沈黙が、俺たちの間を支配した。

11

 その日の授業も、いつものように過ぎていった。何ごともなかったかのように。

 そして放課後。俺は帰り支度をしていたが、ふと思いついて、少し残ってみることにした。
「……あの」
かすみが声をかける。
「帰らない、んですか?」
「ああ。待ち人、だ」
「そう、ですか……」
来るとは限らないがな。
「かすみは?」
「あの……わたしも」
「そうか」
……それっきり、ふたりとも沈黙した。

 どのくらい待ったのか。ほんの数分なのか、それとも数刻もかかったのか。
……がらっ、という音を立てて、教室の扉が開いた。
「待ち人、来たる、かな」
俺の読みは、正しかったらしい。

 扉の向こうにいたのは、文月だった。動揺していた。
「……か、和人っ」
「よお文月。やっぱり来たか」
俺はつとめて冷静に言ってみた。多少、にやついていたかもしれない。
「や、やや、やっぱりってってって」
文月のどもりぐせが出た。よほど困惑しているようだ。そりゃそうだろう、かすみひとりだと思い込んでたんだろうからな。
「か、和人、いいい、いったいあんた、ななな、何してたのよ」
「何も」
俺は平然と言い放った。
「そそ、それに、か、かすみ、あああ、あんたもっ」
「……」
かすみは黙って首を横に振る。拒絶の意思表示だろう。
「くぅぅ……」
文月の口からことばらしきものが出なくなった。

「……さっきから黙って聞いていれば! 文月お嬢様に失礼だぞっ!」
取り巻きのひとりが口を割った。
「失礼か。あんたたちのほうがよっぽど失礼じゃないか」
俺も黙ってはいない。
「おまえのその口のきき方がそもそも−−」
「うせろバカ。俺は文月とかすみに用がある。おまえら取り巻き共はどうでもいい」
俺は取り巻き共を一瞥する。
「なーっ! なんだと、こいつっ!」
「やる気なら、やろうか?」
「……くっ」
連中は、文月の指令がない限り飛んでは来ない。切れたところで、俺の敵ではない。連中もそれは心得ている。
「文月」
一通り、取り巻きをにらみつけたあと、文月に声をかけてみた。
「言いたいことがあるなら言ってみろ。聞いてやる」
「……くっ」
文月が唇を噛み締める。
「和人、あのね」
かすみが声を上げた。だが俺はそれを制した。
「かすみは黙っててくれるか」
「……え」
俺は決めていた。何が起こっているのか、文月の口から聞くと。
「文月に言わせないと、何にもならない」
「……」
かすみはそれっきり黙ってしまった。

 長い沈黙が流れた。
「和人」
……文月がつぶやく。
「和人。ごめん」
「俺に謝るな」
冷たいようだが、俺はあっさりと返す。
「謝るなら、直接の被害者に謝れ。それが誰だろうとな」
「……」
文月が意地を張るのもわかる。ここまで来ちゃ、引っ込みもなかなかつかないだろう。だが俺は、文月がそこまで弱い女だとは思っていない。……じっくりと、待つだけだ。

「ここは」
文月が口を開いた。
「ここは……和人の顔を立ててあげる」
文月の唇が、わずかにふるえている。
「ごめんなさい、かすみさん」
そういって文月は、かすみに頭を下げた。

「ううん、そんなことない」
かすみが何か言おうとするが、文月が止めた。
「いいの。あたしも……あたしもやりすぎたんだよ」
文月が少しだけ微笑む。
「葛城さん……」
「謝ればいいってものじゃないかもしれないけど……あたし、行くね」
そういうと、文月はきびすを返した。
「……これ以上いると、もっとひどいこと言いそうだから」
小さな声でつぶやくと、それ以上は何も言わずに、教室を出た。親衛隊どもも続く。
「……」
そして、俺とかすみが、静寂の中に取り残された。

12

 雪が降り続いた。前線が居座っているせいだと、ラジオががなりたてる。

「うっす」
いつものように教室にはいっていくと、いつもの人間の姿がひとり足りない。
「おはよ」
「ああ、おはよう」
クラスメイトと交わす挨拶のどこかに、微妙に寂しさが混ざっている。足りないのは、後ろの席の人影だった。今日は、かすみは休みか。

 朝礼でも、担任はかすみのことについて触れなかった。一時間が過ぎ、二時間が過ぎてもかすみは来ていない。
「……休みなら休みでいいんだが」
後ろの席をちと振り向いてみた。
「気になるか?」
慶太郎に混ぜっ返される。
「ならないわけないだろ。後ろの席なんだから」
「ほー」
「にやけるな、このやろ」
慶太郎にからかわれた気分で多少むかついた。

 結局その日は、かすみは現れなかった。俺は少し寂しい気持ちで、塾へ向かった。塾でも、かすみの話はひとつも出なかった。

 それから三日間、かすみは姿を現さなかった。……担任が何も言わないのは少々気味が悪かったが、『そういうものだろう』と自分を納得させることにした。今までに、そういう長期休暇を取ったやつがいないので、比較対象がない。つまり、わからん。

 四日後の土曜日。いつものようにぎりぎりに登校すると、俺の後ろの席に伏せった人影があった。
「うす」
……そいつに見覚えはあったが、確証はない。
「……おはよう」
人影が顔をあげると、やつれた顔が見えた。
「かすみか」
「……」
かすみから、あきらかに気力が消えていた。俺の知らないことだが、何かつらいことがあったんだろうか。
「ずいぶん休んだな」
水を向けてみると、一言、
「……母が死にました」
とだけ答えた。なるほど、そういうことか。ようやく休暇の理由を納得した。だが、それなら担任から一言あってもいいものだが……。

 ……ここで俺はもう一言言っておくべきだったのかもしれない。『気を落とすなよ』とでも。だが、俺の口から出た言葉は、
「そうか……わかった」
だけだった。かすみも、
「うん」
と答えただけだった。

 それからかすみは、他人と話をしなくなった。いつもどこかぼんやりした雰囲気を漂わせていた。それと、いつもバンソウコウを顔に貼っていた。

13

「夜は冷えるな……」
塾の帰り。日はとうに落ち、白い月が夜空を照らしている。

 帰り道の公園に、ふと人影を見た。多数の人間が何か争い事をしているようだ。逃げようか……とも思ったのだが、どっちにしてもこっちを通らないと帰れない。

 と、そのとき。声が聞こえた。
「ウヒヒ……けっこうよかったぜ」
「あー、最高だったな」
「よし、引き揚げだ」
「ウス」
女のすすり泣きも聞こえる。そしてそこにいた何人かが、こちらへ向かって来るのが見えた。幸いにしてこちらには気づいてないようだ。少し、避けよう。

 男たちが通りすぎていく。
「兄貴、これでよかったんでヤンスかね」
「ああ。文月様のご依頼だからな」
「にしても、おいしいハナシもあったもんでヤスね」
「あー……」
兄貴と呼ばれた男は、少しだけ苦い顔をしていた。……文月?

 なんとなくいやな予感がした。ひとり、取り残されている人影が月明かりに見えた。急ごう……。

「……!」
引き裂かれた白いブラウスと紺のスカート。肩口に見える白い下着、そしてそれよりも白い肌。……わずかににじむ、鮮血。そして見慣れた黒髪。
「か……かすみ」
「こないでっ!」
近づこうとする俺を、かすみが拒絶する。
「こないで……あたしを見ないで」
「……かすみ」
「こないでったらこないで!」
かすみが必死に身を隠し、俺を拒絶する。
月明かりに浮かぶかすみは、凄惨なまでに美しかった。
……そしてそれを美しいと思う俺自身に、俺は激しく嫌悪を覚えた。

「かすみ……これ、着てろ」
俺は上着を脱ぎ、思いきってかすみにむかって投げた。
「俺は向こうを見てる。だから着てろ」
そういって俺はかすみと反対を向いた。もう、あいつのほうは見ない。
「……」
かすみは答えないが、投げた上着が動いていく気配はしていた。
「かすみ、警察呼んでくる……」
「待って」
俺は警察を呼ぼうと思ったのだが、かすみに呼び止められた。
「和人。行かないで」
「かすみ……」
「お願い。そのまま、そこにいて……」
「……かすみ?」
「でもこっちは見ないで」
……かすみと俺との間に、冬の風が吹き抜けた。
「かすみ……こんなところにいたら冷えきっちまうぞ」
からからの喉から、俺は必死に声を絞り出す。
「とにかく、家へ帰ろう」
「……」
「大丈夫。俺がついていってやる。必ずおまえを守る」
「……」
「かすみ」
俺は動けなかった。かすみが動いてくれなければ、俺には何もできない。

 ……かすみ、頼む。動いてくれ。

 それからどれくらい過ぎたのかわからない。
かさっ。
……わずかに、後ろで動く気配がした。
「……和人」
その声は思いがけず、真後ろから聞こえた。
「かすみ……帰ろう」
「帰らない」
かすみのふるえが、伝わってくる。

「あたし、家には帰らない。和人のうちへつれていって」
「……なんだって」
かすみの意外な発言に、俺は動揺していた。
「和人」
「……だからといって」
「お願い、和人……」
そういうとかすみは、俺のシャツをギュッとつかんだ。
「……」
俺も鬼じゃない。かすみの頼みくらい、聞けるはずだ。だが、この状況では、俺も正気を保てるかどうかわかりゃしねえ……。
「わかった……。俺のうちでいいんだな」
心の奥底から沸き上がってくる、何か黒いものと必死に戦いながら、俺はそれをようやく口にすることができた。
「……じゃあ、俺の上着かぶってついてこい。いいか」
「うん」
かすみがうなずくのを聞いて、俺は歩き始めた。背中にかすみの体温を感じながら。

14

「……ただいま」
「おかえり、お兄……あっ」
うちにつくと、雪子が出迎えてくれた。

 雪子が俺に聞く。
「後ろの人……だあれ、お兄ちゃん?」
「杉浦かすみ。俺の同級生だ」
「かすみお姉ちゃん……どうしたの」
「……聞くな。いまは聞くな」
俺が今何かいえば……かすみの心の傷を広げかねない。雪子にはあとから話そう。
「雪子、とりあえず……風呂、入れるか?」
「うん。支度するね」
そういうと雪子は駈け上がっていった。……感謝するぞ、雪子。

「……かすみ」
まだ俺の上着をかぶっているはずのかすみに声をかける。
「俺のうちだ。とりあえず、上がっていけ」
「うん」
「今、雪子……俺の妹だ、そいつが風呂をわかしてる。入っていけ」
「……ありがとう」
背中ごしに聞こえる声は、まだいつものかすみじゃない。
「おにーちゃーん」
雪子の声が聞こえる。
「お風呂、入れるよー」
「わかった……かすみ」
「うん」

 かすみは結局俺には一度も姿を見せないまま、風呂へ入った。
「お兄ちゃん」
雪子が俺の顔を覗き込む。
「元気ないよ。どうしたの」
「俺のことはどうでもいい」
「そうでもないよ。お兄ちゃんだし……でも、あのかすみお姉ちゃんって人、どうしちゃったの」
かすみのことは、雪子も気になるようだ。……当たり前か、あれだけおびえていたのだからな。
「何か……あったの?」
「雪子……耳、かせ」
……かすみが聞いてないとも限らないからな。俺は雪子にヒソヒソ声で話すことにした。
「うん」
「いいか、大きな声ではいうなよ。ただでさえ傷付いているんだからな」
「……うん。なんだかそんな感じ」
「あいつ……された」
「……何を?」
「ああ……いや……その」
雪子、頼む、悟ってくれ。俺はそんな恥ずかしい単語いいたくない。
「変なお兄ちゃん。ちゃんといわないとわかんないぞ、って言ってるのはいつもお兄ちゃんなのに」
「うぐっ」
雪子、たのむ、そんなところで逆襲しないでくれ。
「……くは。雪子、おまえまでショック受けないように深呼吸」
「はあ?」
「……いーから。俺もする」
「何それ」
すうはあ。すうはあ……。いかん、俺まで熱くなってどうする。
「雪子、いいか」
「あたしはべつに落ち着いてるよ。お兄ちゃんばっかりあわてて」
「うぐ……いや、やっぱり言いにくいからな」
「しょうがないなあ」
「……いいか。あいつ、レイプされた」
「えっ」
「わ、雪子っ」
大声あげそうになったところを慌てて口を塞ぐ。
「静かにしろといっただろっ」
「むぐー……ぷは。わかった、わかったから。もう」
「俺が通りかかったときには、すでにことは終わっていた。なんとかうちへ帰そうとしたんだが、うちへ来ると言い張ってな」
「お兄ちゃん、頼られてるんだ」
「……そうかな」
「そうだよー。そうでなきゃ、男の人のところになんか行かないよ?」
「いや……」

 だったら、あの拒絶はなんだったんだ。
あれは、明らかに俺に対する拒絶だった。
男というものに対する拒絶だった。

「あっ。かすみお姉ちゃん」
……どうやらかすみが風呂から上がったらしい。
「雪子……あとを頼んでいいか」
「え、お兄ちゃんがいたほうがいいよ」
「頼む」
そういって俺はその場を立った。かすみのほうなど、見られなかった。
「かすみお姉ちゃん。お風呂、どうだった?」
背中に雪子ののんびりした声が聞こえた。……女同士だ。なんとか、してくれるといいが……。

15

「お兄ちゃん。かすみちゃん、泊まっていきたいって」
俺が自分の寝床の上でゴロゴロしていると、雪子が聞いてきた。
「うん、まあ……いいんじゃねえか」
うちには布団もある。場所もある。ひとりくらい増えたところで、どうってことはない……が?
「待て。家の人とかには連絡したのか?」
「それがね……したくないって」
「したくないって……まずいぞそれ。ただでさえかなり遅い時間なのに」
「でも、お姉ちゃんにいくら言ってもいやがるんだもん」
……どういうことなんだろうか。
「……俺の、出番かな?」
「うん」

「かすみ。入るぞ」
かすみは妹の部屋にいるという。
「……うん。もう大丈夫」
「そうか……」
かすみの気丈な返事に、少しほっとした。ただ、俺も男だ。あいつの心の傷に触れなければいいが……。

 ドアを開けると、ふとんにくるまったかすみがいた。
「寒そうだな」
「……うん」
まだ、まっすぐには俺を見られないらしい。
「かすみ。親御さんには」
「いや」
……即答か。といってもこっちも困るからな。
「いや、と言われてもな。保護者の方に連絡しないと、こっちも」
「いやだったらいや」
「……聞いていいか。どうして」
「だってあんなの、保護者でもなんでもないんだもん」
……意外なことばだった。
「かすみ?」
「あんな人、親じゃない……」
かすかに声にふるえが混ざっている。
「お願い、これ以上聞かないで! 黙って、泊めて」
……そして、また拒絶。

「……」
俺にはもう、打つ手はなかった。
「雪子」
「なに、お兄ちゃん」
「かすみといっしょに寝てやってくれ。俺は向こうで寝てる」
「……わかった。おやすみ、お兄ちゃん」
「ああ、おやすみ」
「おねえちゃーん。いっしょに寝よっ」
「雪子……ちゃん、だっけ?」
「うん、雪子だよー。覚えてくれたの、嬉しいな」
……雪子の明るさが、すべてを救ってくれることを祈るしかない。

「……ふう」
俺の寝床からは、雪子の声もかすみの声も聞こえない。
「……」
二度の、拒絶。それが俺に重くのしかかる。俺には、あいつの心を守ってやることができなかった。その事実が、俺に重く響く。
……俺には何もできなかった。
……俺には何もできなかった。
……俺には何もできなかった……

16

 翌朝。

 俺はまったく眠れなかった。雪子とかすみはどうだったのか、俺は知らない。なにせ、ふたりとも俺が起きたころにはもういなかった。

 ちゃぶ台の上に、雪子の字で、置き手紙があった。『お兄ちゃんへ。今日は当番なので、先に学校へ行きます。かすみお姉ちゃんも先に行くそうです。朝ごはんはいつものとおりね。いってきます。雪子』
「……ふむ」
かすみのやつ、昨日は着の身着のままで泊っていったんだろうし、いったん家に帰ってもおかしくないだろう。俺はいつものとおり朝飯を食うと、いつものように学校に出かけた。……少しだけだが、警察に届けるかどうか、悩みながら。

 そして、昨日と同じように授業が始まる。なにごともなかったかのように。だが、かすみは来ていなかった。10時を過ぎても、昼休みになっても、まだ来ていない。

 ……おかしい。

 俺はだんだん不安になってきた。いわゆる、『いやな予感』というやつである。あまりいいことではないのかもしれないが、彼女のことが気になってしかたがない。

 放課後、俺は掃除当番だった。まだ、かすみが気になっている。
……ぱかん!
「ナニぼーっとしてんだよ! ほら、仕事仕事」
「……ってえな」
よほど考え事をしていたらしく、俺は後ろを取られてほうきではたかれていた。
「慶太郎か」
「『けーたろーか』かじゃねえ。ちゃんと仕事しろってんだ」
「あ、ああ……」
「……何を考えている」
慶太郎が俺に聞く。
「なんでもない」
「なんでもないやつが後ろなんか取られるか」
……するどいところを突くやつだな。
「聞いたところでどうにもならないだろうが、警告はしておく。これ以上首を突っ込むな」
「……なんだって?」
慶太郎、どういう意味だそれは……。
「聞くな。……担当分だけはやってけコラ」
「……わかった」
……とはいっても、そのあとも心ここにあらずであったことはいうまでもない。

 屋上から夕日を見た。山端に映える夕日がもうすぐ沈む。風はもう夜風だ。かなり、寒い。
「冷えるな……」
……ふと、かすみのことを思ってみる。

 彼女は、この寒い空の下、どんな思いで、どこにいるのだろう。……あんなことがあった直後だ。ひとりで放置しておくわけにもいくまい。俺はきびすを返していた。

「先生!」
担任は職員室にいた。帰り支度をしている。
「ちょっと、いいですかっ」
「和人。なんだ?」
「……きょう、かすみ、どうしたんですか。先生何か聞いてますか?」
「いや」
……な、なんだって?
「先生も知らない。親御さんからも、かすみ本人からも連絡がない」
「……じゃあ、行方も」
「わからないな」
「……」
なんてことだろうか。彼女は家にも帰らず、学校にも来ていない、ということなのか。
「和人、なにかあったのか?」
「先生。ちょっと、いいですか。ここで聞かれると少しまずいです」
「……なんだと」

 俺と先生は、人気のない教室へ移動した。そして、俺は俺の見た一部始終を話した。
「……それで、警察には届けたのか」
「いえ。かすみがどうしてもいやがるものですから」
「そうか……」
「……先生」
この件は俺にも責任の一端があるような気がする。少しでも、解決になるなら、俺の力を使えるのなら。
「かすみの住所、わかりますか」
「ああ」
「……俺」
「先生は何も聞いてない。住所は教えてやるが、それだけだ」
「……!」

17

「ここの角のはずだな……」
レシートの裏に書かれたメモを元に、俺はかすみの家を探した。事情が事情だけに、雪子にも同行してもらった。風が冷たい。
「寒っ……雪子、寒くないか」
「寒いよー。でも平気だよ」
「……すまんな」
「それより早く」
「……ああ」
ぴんぽーん。
「……」
……返事がない。中の明かりは灯っているのに。
「おかしいね」
雪子も異常だと思ったらしい。
「ああ」

 ぴんぽーん、ぴんぽーん、ぴんぽーん。
「……」
へんじがない。ただのしかばねのようだ……ってのは冗談にしても、これだけ返事がないのもかなり不自然だ。
ぴんぽーん。
「……お兄ちゃん。全然だめだね……。いったん、帰る?」
「もう少しだけ粘っていいか」
「あ、まだやるの? うん、いいよ。お兄ちゃんの気の済むまで」
「おまえは帰ってもいいが」
「そうもいかないよー。お兄ちゃんのことだし、お姉ちゃんのことだし」
「……雪子、なんかかすみになついてるな」
「うん♪すてきなお姉ちゃんだもん」
「……そうなのか」
雪子の屈託のない笑顔が、かえって痛い。

 ぴんぽーん。
「……だれでもいい、だれか出てくれ」
俺と雪子の祈りも通じず、だれかが出てくる気配もない。
「……少し様子を見るか」
「うん」
そこから離れないように、玄関を見ながら、しばらく待ってみることにした。
「……ところで雪子」
「なあに?」
「今朝……かすみはどうした」
「うん。朝ごはん食べて、学校へ行く、って言ったから、いってらっしゃい、って送ったの。学校へ来てないなんて思わなかったよ……」
「心配かけるな。すまん」
「ほんとだよー。お姉ちゃん……」
……雪子も情報を持っていないのか。まいったな。

 ふと目を転じてみると、垣根の中に白い物が浮かんでいる。
「なんだありゃ? ……雪子、ちょっと監視頼む」
「なにかあったの?」
「ん……あのへんになんか変な物が」
「わかったー。見てるよ」
俺がその物体に近寄ると、物体はしだいにその姿を鮮明にする。オレンジ色の表紙……どこかでみた本だぞ?
「これは……平岡式?」
平岡式。うちの学校で何十年にもわたり、改良に改良を重ねて使い続けられている参考書。これなくして、うちの教育は語れないほどの代物なのだが、なぜそれが?
「名前は……杉浦かすみ!」
彼女のだ! 大変な発見だ!
「雪子!」
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「これだ……かすみの平岡式」
「え……どうしてそんなのが」
「わからない」
拾った平岡式を雪子にも見せようとすると、一枚、紙が落ちた。
「おっと……」
拾い上げて読んでみた。
『わたしは父の元へまいります。
最後に、この本は和人君に渡してください。
きっと、わかってくれるはず。
杉浦かすみ』
「……お兄ちゃん」
「雪子……これは俺たちふたりの手にはおえない事件になってきたな」
「うん……」
雪子の声が少しふるえている。
「とりあえず、担任に連絡する。この手紙の意図をつかむために」
「あたしはもう少し、ここで粘ってみるね」
「……わかった。風邪引くなよ」
「大丈夫だよ」
雪子が無理に微笑んでいるのがわかる。俺は公衆電話を探した。

18

「和人、何があったんだ」
「これです」
担任がかすみの家にたどりついたのは、それから二〇分後のことだ。
「これか……平岡式だな」
「それと、これが挟まってました」
「手紙か。『わたしは父の元へ……』……なっ」
担任の顔が、一瞬にして青ざめた。
「なにがあったんです?」
「かすみの父親は、二年前に亡くなった」
「……なんですって!」
「まさか……な」
担任の額に脂汗が浮かぶ。おそらく、俺も同じだったに違いない。
「それと……なんだ、かすみの保護者には会えたのか」
「いいえ」
「そうか……やっぱり」
担任の顔に苦渋が浮かぶ。
「やっぱり?」
「ああ……かすみは、父親が亡くなってから、親戚に引き取られる形でこっちへ引っ越してきた。だが、その親戚とはあまりうまくいっていなかった様子だ。先生にもう少し、力があれば……」
「先生、今はそれを言っても仕方ないです」
「すまん、和人……」
俺に言っても仕方ないです、先生。俺に言っても。

 担任とともに、かすみの家の玄関まで戻ってきた。雪子はまだ、そこに立っていた。
「お兄ちゃん……」
「雪子、どうだった?」
「全然反応ないよ」
「そうか……」
「お姉ちゃん、どうしちゃったんだろう……うぅ」
雪子の顔色が変わった。目にいっぱい、涙を浮かべていた。
……そして、声を上げて泣き出してしまった。
「うぅ……うわぁーん、わぁん」
雪子は昔から、どこか敏感なところのある子だった。もしかすると、俺と先生の会話も感付いていたのかもしれない。俺は雪子を抱きしめて頭を撫でてやりつつ、とぼとぼと歩いた。

 警察でのことは、簡単に記そう。一部始終を聞いてくれたのは、たまたまだが女性の刑事だった。俺は俺の知っていることを簡単に言った。いじめのこと、昨日のこと、そして今日のこと。
「そう……よくわかったわ、ありがとう」
「いえ」
「かすみさんにとっては……君だけが頼りだったみたいね」
「そんなことないです」
「……そうでもないわよ?」
「だったら……俺はなぜ拒絶されたんですか」
「……それだけ、彼女の絶望が深かったってことよ」
「そうですか……」
「そうね……彼女が見つかったら、真っ先に知らせてあげる。君と雪子ちゃんだけは、彼女にとって大切な人だから」
「……俺は」
「もういいの。もう何も言わないでいいのよ」

 粉雪が降り始めていた。俺と雪子は、刑事さんに借りた傘に入って、帰り道を急いだ。俺たちふたりだけでも、ときどき寂しくなることがあるのに、ひとりぼっちだったかすみの絶望は、どれだけ深かったことだろうか。

19

 翌日も雪だった。

 昨日の今日だったが、俺と雪子はもう一度かすみの家に来てみた。
「お兄ちゃん……今日は、いるかな。かすみお姉ちゃん」
「……わからん。せめて保護者の人にでも会えればとも思うのだが」
「そうだね」
ぴんぽーん。……やっぱり、反応がない。
「あかりはついているのにね」
「ああ……」

 何度かベルをならしてみたものの、人が出てくる気配はない。もう一回押してみようとして伸ばした手が、雪子の手と触れ合う。
「……あ」
その手はあまりにも冷たく、長いことここに立っていたことを示していた。
「雪子……手、冷たいな」
「お兄ちゃんも」
「今日も、ダメかな……」
「……お兄ちゃん」
雪子が、俺のコートをつかむ。
「あきらめちゃうの?」
「……今日がダメでも、また明日来るさ。その次も。次も……」
「うん」
重く曇った空から、雪が降り続いていた。

「そうだお兄ちゃん、電話は?」
「……電話か」
そこで担任に聞いた話を思い出す。
「うちの担任が電話してみたというんだが……だれも出ないそうだ」
「……だれも?」
「ああ。信頼のおける情報だと思うが」
「お兄ちゃん。電話番号、わかる?」
「あ? ああ、これだ」
俺は雪子に、電話番号を書いたメモを渡した。住所のメモと同じものだ。
「……ええっと、電話はっと」
「そこの角だ。俺がこの間見つけたからな」
「お兄ちゃんありがと。かけてみるから」
「ああ。俺はここにいる」
「……うん」
雪子が走っていく。俺はひとり、そこにたちつくした。

 それから何回かベルを押してみたものの、反応はない。
「……」
暗い空から、雪が舞い降りて、すこしずつ地面を埋め尽していく。落ちてきた雪は、地表にたどり着くと、泥を吸って汚れていく。
「……お兄ちゃん」
雪子がとぼとぼと帰ってきた。
「やっぱり……だれも出ないよ」
「そうか。寒かったか」
「うん……」
雪子がうなだれる。俺は、雪子の頬に手を伸ばしてみた。雪子の頬は、氷のように冷たかった。
「……冷たいな」
「うん」
「帰ろうか」
「……うん」
雪子はうなづくが、そこを動こうとしない。
「行くぞ?」
……雪子は泣いていた。肩を震わせて、涙をこぼしていた。
「お兄ちゃん……くやしいよ。悲しいよ。どうしたらいいの、ねえ……」
『俺だってくやしいよ』と言いそうになるのを必死にこらえて、俺は雪子の頭を撫でてやった。雪子は……俺の代わりに泣いてくれるんだな。
「お兄ちゃん……」
雪子が顔をあげた。涙は頬をぬらし、瞳は悲鳴をあげていた。
「明日、また来るぞ。今日はもう帰ろう」
俺が促すと、雪子はごしごし、と目をこすると、
「うん」
とつぶやいて歩き始めた。

20

 それから何日か、俺はかすみの家に日参してみた。近くの家の人に聞いてみたりもしたのだが、だれかが出入りした気配は、だれも知らないという。雪子もかなり心配している。警察からの連絡は、ない。

 ある早朝、いつものように教室に入った。

 ……かすみの机の上に、一輪の花が、花瓶にたてられていた。

あとがき

 あとがきねこぽんです。

 いやー、欝はいってますね。今回はラストシーン(つまり、花瓶)から逆算するように書いていったので、全体に欝っぽくなってしまいました。まあ、こんなんもかけまっせ、みたいな。

 それじゃまた、次回お会いしましょう。あいたたた。