クリスマスの歌姫 2nd

さく: ねこぽん

まえがきのようにみせた何か

 もう覚えてないかもしれませんが、約3ヶ月前にリリースした『クリスマスの歌姫』のつづきです。前の本はもう見本誌しか残ってないのですが、どうなることやら。

 では、ごゆっくり。

もくじ

第1章 -- ブランク

「……お世話になりました」
「いやあ、こちらこそ。本当によく働いてくれたよ」
「じゃ、俺はこれで」
「うん……元気で、やってくれ。それが何よりも大切だ」

 ……あの悪夢から、1ヶ月がすぎた。

 まだ、ところどころで煙が見え、微妙に焦臭い臭いが、消えないでいる。そんな状況に、少しだけ心を残しながら、俺はここを去る。

 俺はまた、何もできなかったんだ。

1

 神戸。

 六甲山脈と大阪湾に挟まれ、東西に長く伸びる百万都市。中世から貿易港として栄え、明治時代には横浜とならび外国貿易の拠点となった。その時代の名残をそこかしこにとどめながら、なおかつ新しい時代の鼓動を発信し続ける街。

 1995年1月17日。
その街が、直下型地震によって、崩壊した。

 死者六千有余名、負傷者10万にもおよぶ大災害。小さな工場や民家の多かった長田区では、それらが倒壊して火災となり、多数の焼死者を出した。中央区では大きなビルが倒壊して道路をふさいだり、あるいは阪神高速や鉄道の高架線が倒壊して、物資や人員の輸送に大きな支障をきたし、これが緊急搬送の妨げになった。地震そのものの被害は、震源地であった淡路島北淡町のほうが大きかったのだが、人的被害は、人工密集地である神戸市のほうが大きかったといわれている。狭隘な地形、それはまさに、神戸という街の、ひとつの弱点であった。

 地震により発生した火事は、1ヶ月近くたってもくすぶり続けている。神戸市内は、どこへ行ってもこの臭いが付きまとう。俺が働いている避難所でも、いつまでたっても臭いが消えない。

「若葉君」
「はい」
ボランティア・リーダーが俺を呼んでいるようだ。
「……なんでしょう、リーダー」
「一つ、頼まれてくれる? 鮎川さんに、手紙をとどけてほしいんだけど」
「いいっすけど……」

 俺は、地震の直後に神戸へ行き、救援のボランティア活動を行っていた。地震直後は物資も場所もなく、学校の体育館や教室、公会堂などへ避難した人たちへの炊きだしを行うのが精一杯だった。数日たつと救援物資が届きだし、毛布の配給などができるようになった。しかし、人間の精神の限界というのは、どうやらそのへんにあったようだ、そのころから被災者同士の喧嘩が絶えなくなってきた。喧嘩に至らなくても、イライラがつのっているのは、様子を見ているだけでもわかる。何か、張りつめた空気がただよう。俺はとにかく、だまって働いた。不用意に関わると、喧嘩に巻き込まれて大怪我をすることがある。実際、サブリーダーの一人が喧嘩を仲裁しようとして殴られ、全治1週間の怪我をした。それに、俺たちは所詮よそ者だ。被災者がボランティアを見る目は、それほど暖かいものじゃない。あくまで、『よそ者を見る目付き』でしか、俺たちを見てはいない。ほんのちょっとしたことであっても、『よそ者が口を出すな』といった雰囲気は、常に感じられる。

「なんでリーダーが直接行かないんですか」
「……うん、まあその」
「何ですか??」
「若葉君がいい、って言うんだよ、鮎川さんが」

 鮎川さん親子は、母親と娘の二人だけで、ここへ避難していた。ぎすぎすした避難所生活の中で、この二人だけはよく、俺と話をしていた。話といっても、『何か困ったことはありませんか』と聞くくらいだが。

「……で、俺ですか」
「そうなんだ。頼める?」

 正直なところ、俺たちボランティアの下働き部隊は、時間にゆとりなどなく、個々の被災者と話をする余裕はあまりない。リーダーは『それではいけない、顔の見えるボランティア活動を』とよく言うのだが、それは正直困難だ。……それに、俺は今、あまり人と話をしたくない。口を開くと、ろくでもないことばかり言ってしまいそうだから。

 ……あいつがいないことが、こんなにつらいなんてな。

「わかりました。手紙を、渡してくればいいんですよね」
「うん。一応、それだけ。……これね」
「はい……」

 リーダーが手渡した封筒の表には、『鮎川まゆみ様』と記されている。裏には……何も書いてない。なぜなのか聞こうとした俺を、リーダーは手で遮る。
『何も聞くな』リーダーの顔には、そう書いてあった。
「……行ってきます」
俺は黙って、鮎川親子のもとへ向かった。

「鮎川さん」
「……はい」
鮎川さんは、すっかりやつれている。避難生活が1ヶ月も続いたんでは、そりゃ疲れもするだろう。
「鮎川さん宛てに、お手紙を預かってきました」
「はい」
俺はリーダーから預かった封筒を、鮎川さんに差し出す。鮎川さんの手は、ひどく細かった。

「……待って、ください」
俺が去ろうとすると、鮎川さんが呼び止める。
「はい?」
「……」
それ以上は何も言わないが、鮎川さんがじっと俺を見ていた。俺も何も言えず、だまって鮎川さんを見返す。鮎川さんは目をそらすと、封筒の封印を切って、中身を取り出した。俺はなぜか、その場から動けない。沈黙が流れた。

 鮎川さんが手紙を読み進めていく。そしてその両目から、涙がこぼれ、そして嗚咽に変わる。

 そんなシーンは何度も見た。
だが。
何度見ても慣れない。
何度見ても……胸が痛い。

「……ありがとうございました」
鮎川さんが頭を下げる。
「いえ……」
そんなこと言われても、俺、何もしてないっすよ。
「失礼します」
俺が頭を下げて立ち去ろうとすると、
「ただいまぁ。あ、若葉のあんちゃん来てるやん」
能天気な声がする。……鮎川さんの娘さんだ。名前は知らない。
「おかえり」
涙もふかないで、鮎川さんが娘さんに答える。
「……どないしたん」
さすがに異常を感じ取ったのか、娘さんの態度がしおらしくなる。
「お父ちゃんがな……うっ」
鮎川さんはそう答え、かぶりを振るのが精一杯だった。また、涙がこぼれる。
「……」
娘さんもうつむいた。
「そか……うち、お母ちゃんとふたりっきりやねんな」
娘さんのその言葉を背に、俺はその場を立ち去った。

「行ってきました」
俺はリーダーのところに戻った。
「若葉君、どうもすまないね」
「頼まれちゃ仕方ないです」
そうはいうものの、俺は少なからず腹を立てていた。なんで俺が、死亡通知を渡すようなことをしなきゃいけないんだ。
「……怒っているかい」
それを見透かすように、リーダーがつぶやく。
「いえ」
「……そうか。でもね、若葉君」
「はい」
「いつか、だれかがやらなきゃいけないことなんだ。だから、一番適任だと思う、君にお願いした。それだけは覚えておいてくれないか」
「……はい」
たしかに……だれかがいつか、やらなきゃいけない。それがたまたま俺だった。ほかのボランティアスタッフだって、何度も同じことをしているはずだし、実際、俺も何度かこういうことをしてきた。……それでも、心が慣れない。何度同じことを繰り返しても、だ。
「んじゃ俺、そろそろ物資スタッフのほう、行ってきます」
「あ。よろしく」
こういうときは、何も考えないに限る。物資の積み降ろしスタッフで、汗を流すんだ。……そうでもしないと、この胸のつかえは、降りてくれない。

2

「こんにちは。何か変わったこと、ないっすか」
ボランティアスタッフの仕事は、何も物資の配給や炊きだしだけじゃない。ここのリーダーの方針で、ときどきこうして、被災者の様子を見て回ることも行っている。もちろん、何か異常があればすぐに駆け付けることも必要だが、リーダーによれば、『気にかけている人がいますよ』ということを常に伝え続けることが、心のケアとして必要だという。それが本当なのかどうかよくは、俺は知らない。
「そうやなあ……仮設住宅の様子、どないや?」
「仮設ですか。あしたかあさってにまた募集があるそうです」
「さいか……こんどは入れるとええなあ」
「そうですね」
「あんちゃん、おおきにな」
「いえ。……こんにちは」
避難所の一世帯一世帯を、丁寧に回って行く。その間をひとつひとつ回っていくのは、それはそれで骨のおれる仕事である。
「どうですか、問題とか起きてないですか」
「あんじょあらへんで、あんちゃん。……せや、うちらこんど、山科のほうへうつるねん。よろしゅうにな」
「はい、わかりました」
「せわんなったな、あんちゃんたちには」
「いえ。困ったときはおたがいさま、ですよね」
「いやあ、そういうてもらえると、こっちも気が楽やで。ほんま、おおきにな」
「いえ」
……こういったことも少なくない。だんだん仮設住宅が建ってきたことや、あるいは親類縁者のところへ引っ越す被災者もでてきたので、歯抜けのように被災者がいなくなっている。その分、こちらの仕事は、着実に少なくなっていて、ボランティアの数も少しずつ減っている。
「……こんにちは」
最後に鮎川さんのところについた。昼間は、娘さんは中学に出かけているとのことで、母親がひとりで、避難所の留守を守るかっこうになっている。……そういや、どこの学区かも聞いてないな。
「あ。こんにちは」
「どうですか、何か問題とかありますか?」
「いえ……その、若葉さんはいつまでこちらに?」
……え? な、何のことだろう。
「え、えと、俺ですか?」
「はい」
「……それは、答えられないです」
それは……俺にもわからないから。俺の心が、いいと納得するまで、だから。
「そうですか……。あの、私たち親子も、東京の親戚に一時身を寄せることになりました」
話が、急に変わった。
「はい。わかりました」
「……東京の方、ですよね」
だれが、ですか?
「……」
「あ。いえ……いいです。失礼しました……」
何だろう、何かいいたげなんだけど。

 でも、ここで聞くのは、俺のルールに反する。だから俺は、あくまで沈黙を守る。

「とにかく……」
「はい」
「東京の方へ引っ越される、ということですね。わかりました」
「はい、よろしゅうおねがいします」
俺と鮎川さんは、それだけの言葉をかわすと、その場を離れた。

3

「若葉君、君もそろそろ戻ったほうがいいかな」
ある日、リーダーにいきなり、そんなことを言われた。
「俺もですか?」
ボランティアの人数は着実に減っている。仕事は減っていないのだから、ひとり当たりの仕事量は以前よりも増えている。それなのに、ボランティア・リーダーは、ときどきこういうことを言って、ボランティアを帰そうとする。
「うん、君も。長いこといるとね、精神的に疲れが出てくるんだ」
……これも彼の持論だ。
「その疲れは、残念なことに自覚できない。それで、疲れがたまりすぎて精神が耐えられなくなると、突然、ぽきんと」
「それ何度も聞きましたよ」
「事実だからね……それで何人も帰国させたことがあるから」
リーダーは、海外でのボランティア活動も積極的に行っていたという。その経験から出る言葉は、たしかに重い。
「で、俺もやばいと見るんですか」
「うん、悪いけど」
「……なぜですか?」
俺はあえて聞いてみた。どうせ、何の根拠もなく、適当に言ってるだけだと思う。……たしかに疲労がたまりすぎると、ぽきんと行くかもしれないが。
「ここ数日の仕事時間数、君はほかの人より少し少ない。その前にかなりこなしてたことを考えると……」
「え?」
「燃え尽き症候群になる前に、休ませるべきだね。気づくのが少し遅かったかもしれないな。若葉君、よく働いてくれるから、つい頼っちゃうんだよね」
「……」
そこまで観察していたのか……?
「若葉君。悪いことは言わない、数日でいいから休みを取りなさい」
「……ですが」
俺にはやりのこしたことが。
「仕事のことなら気にしないで、なんとかなるから。……それに、君はよく働いているけど、それは逃げてるだけかもしれないよ」
「え!?」
「……これ以上は言わないけど、胸に手を当てて、考えてごらん。とにかく、あしたまで働いてくれたら、一時帰休。いいかな」

 思い当たる節がないわけじゃない。働いている時は思い出さないが、床の上に寝転んでいると、あいつの顔がどうしても思い出されてくる。俺は熱にでもうなされるように、その亡霊から逃げ、労働に没頭していた。そのことは、否定できない。
「でも……」
「ここじゃいずれにしてもダメだ。数日でいいから、東京へ戻って」
リーダーは、人の良さそうな顔をしているが、こういうときは実に押しが強い。こういう資質も、リーダーと呼ばれる人には、必要なのかも知れない。
「……はい」
俺は押しに負けた。

 ――それから俺は一仕事終え、休憩に入った。
「……ふう」
床の上に寝転ぶと、やっぱりあいつの顔がうかんでくる。

 ……あずさ。俺の大切な、最愛の人。そして、地震の犠牲者のひとり。

 あいつが最後の電話から何を考え、何を思ったのか。思えば思うほど、つらい気持ちで胸がいっぱいになってくる。俺……あいつのために、何ができただろうか……。

 どんなに一生懸命働いても、あずさがこの手に戻ってきてくれるなんてことは、ありえない。
それはわかってる。
わかってるんだ。
……わかってるんだけど。

4

「……」

 翌日、俺は東京へ戻ることを、鮎川さんにひとこと言っておこうと思った。いつのまにか長いつき合いになってしまっていたことだし、まったくあいさつも無し、というのではまずかろうと思ったのだ。ところが、いつもの体育館に、二人の姿がない。どうしたことだろう?

「若葉君、どうしたの?」
「あ。山口さん」
そこにとおりかかったのは、俺と同じように、ボランティアで働いてた山口さん。

「……鮎川さんなら、東京へ引っ越したって」
そういえば、そんなことを言ってたっけな。
「急だけど、若葉君によろしくって」
「……そうっすか」
「そういえば、リーダーに聞いたよ。若葉君も今日帰るんだよね」
「はい」
「おつかれさま。あとひと働き、よろしく」
山口さんはそれだけ言うと、向こうへ消えていった。

 ……それから。

 俺とリーダーは西代に来ていた。俺はここから、大阪を経由して、東京へ帰る。リーダーはそこまでつき合うわけにも行かないけれども、西代駅までは来てくれることになった。

「若葉君、ほんとうに君はよく働いてくれたよ」
リーダーは、なんども同じセリフを繰り返した。
「正直、帰すのは惜しいくらいだ」
「……だったら」
「でも、倒れられても困るからね。一週間くらいは休んでほしい。それからまた来るなら、それこそ大歓迎だけど」
「そうっすか……」
――でも、リーダーの目は、『もう来るな』と言っていた。君は疲れすぎていると。それがわからないほど、俺の目は曇ってはいなかった。

「俺、何ができたんでしょうね」
ぽろっとこぼした俺の一言を、リーダーは聞き逃さなかった。
「たくさんの人の命を救ったよ。まちがいなくね」
「……」
それが俺にはわからない。
「それに、たくさんの人の心を救った。それもまちがいないことだよ」
「……そうなんすか」
「うん。……人の心をいやす、一番簡単な方法を知っているかい?」
「……『その人と話すこと』、でしたっけ」
「そのとおりだよ。わかってるじゃないか」
……それは、リーダーが何度もおっしゃいました。
「そして、ぼくらにできるのは、それしかないんだよ」

 専門的な技能を持っているわけでもない俺たちにできること。
……それは、被災者とふれあうこと。

「若葉君……何にもできなかったなんてことは、絶対ない。君がいてくれたこと、ぼくは感謝してるから」
「……はい」

 それでも俺の心は晴れなかった。
……あいつの存在が、こんなに胸にのしかかってくる。

 西代駅は、ぼつぼつと活気を取り戻していた。山陽電車が先に開通し、ほんのこのごろ、神戸高速も通じた。

「……お世話になりました」
「いやあ、こちらこそ。本当によく働いてくれたよ」
「じゃ、俺はこれで」
「うん……元気で、やってくれ。それが何よりも大切だ」

 リーダーはくるりと振り返ると、それ以上何も言わないで、元来た道を帰っていく。次第に小さくなるその背中に、俺は何も言うことができなかった。
「……俺」
戻ってきていいっすか、なんて、言えそうになかった。

第2章 -- セカンド・エフェクト

 俺が東京の学生寮へ戻ってきて、まず最初に歓迎してくれたのは、同室の野庭だった。……ある意味当たり前の展開である。

「……若葉、おまえのいない間のノート、集めておいたぞ」
「野庭……た、助かる」
「いいって。そのかわり」
「……そ、そのかわり?」
「神戸の話、聞かせてくれるか?」

 その言葉に、俺はカチンと来た。

「……野庭。おまえ……言っていいことと悪いことがあるくらい、知ってるよな」
だが野庭は落ち着いていた。
「べつに土産話をしろと言ってるんじゃない。現状を聞かせろ、そういうことだ」
「……」
「冷静になり切れないのはわかってる。……それに、ぼくたちが若葉の話を聞いても、たぶんどうにもできないこともわかってる」
「……なら」
なら、何を聞かせろと言うんだ。

「それでも、ぼくたちは知りたい。今神戸がどうなってるかを」
野庭の目は真剣だった。
「それならニュースでもやってるだろう」
「……全然だ」
「なんだって……」
俺は愕然とした。
「情報がないんだよ。全然、といっていいくらいだ。……しょせん関東のメディアさ」
「……そうかよ」

 そうだよ。
そうだろうともさ。
……しょせん、他人に起こった不幸さ。美しき異国情緒の街と、見せ物的にとりあげはするけど、自分達の仲間とは全然思っちゃいない。
……そして、数年前なら、俺もそう思ってたのかも知れないんだ。

「わかったよ」
俺も腹を据えた。
「……あくまで俺が見た、だ。全容でもなんでもないぞ」
「それでいいんだ。犠牲者が何人とか、どこが被害でとか、その程度の話ならテレビでもやってるからな」
「そうか」

 ――俺はゆっくりと、状況を話した。
避難所のこと。被災者のこと。そして、俺が強制送還されたこと。

「そうか……よくわかった。すごく、参考になるよ」
「参考ねえ」
「ああ」
野庭の専攻は精神医学。災害時の集団心理ってのは、実験してみるわけにも行かず、文献も少ないので、あまりよくわかっていないらしい。つまり、今回の地震も、いろいろな角度から研究してみるだけの価値のある、貴重な例になるらしい。

 最後にひとこと、野庭が付け加えた。
「そのリーダーさんとも話をしてみたかったな」
「そうなのか?」
「……ああ。本当に苦労をされたんだろうね、メンタルケアっていう部分で」
それは……俺もそう思う。そうでなかったら、俺を強制送還したりなんかしなかっただろう。

1

 翌日。
俺は久しぶりに大学へ顔を出した。
……とそこへ、同じ学科の佐々木さんに、ぽんと背を叩かれた。
「ようっ、若葉くんじゃん♪ ひさしぶり」
「……佐々木さん」
「今日は実習よ? 聞いてなかったっけ……あ、ずっと休んでたもんね。聞いてなかったかもしれないわね」
「実習?」
「うん。ほら、付属中で授業見学」
「あ」
……俺の専攻は、教育心理学。それで、ときどきはこういう、授業の見学ってのがある。
「いこうよ若葉くん」
「……ありがとう、佐々木さん。ところでなぜ佐々木さんはここに?」
「あたしも間違えたのよ。てへっ」
……佐々木さんが間違えなかったら、俺はここでまちぼうけだったってことですか。
「ま、結果オーライか。行きましょう」
「うん」

 付属中学は、大学のキャンパスに隣接してある。遅刻寸前ではあったが、なんとか間に合った俺と佐々木さんは、息を少々切らしながらも、見学教室へ滑り込んだ。
「実習生そろった? んじゃ、そろそろ始めるか」
教官が指し棒をぺしぺしと叩きながら言う。俺と佐々木さんは、すみませんと小声で言いながら頭を下げた。

「……っと、その前に。この時間でなんだけど、転入生を紹介する。鮎川さん、入って」
教官が言うと、はいという元気のいい返事とともに、背の低い女の子が入ってきた。
……あれは。

 彼女は、教壇の前まで歩いてきて、ぺこっと頭を下げた。
「鮎川あずさです。神戸から越してきました。よろしゅうに」
……その根っからの関西弁アクセント。間違いない、この子は……。
「彼女は、この間の地震で被災して、東京へ避難してきたそうだ。しばらくの間だけど、仲よくしてやってくれ」
教官が教室を見回すと、
「はい」
という返事が教室にあふれた。

「じゃあ、今日はここまで」
「起立、礼」
学級委員長の号令であいさつが済むと、授業が終わる。それとともに、中学生らしい、ざわついた雰囲気も戻ってくる。『最近の中学生は何考えてるかわからないねえ』なんてセリフもよく聞くけど、ここにいる子供たちは、俺たちの中学時代と、あんまり変わってない気がする。
「若葉のあんちゃんやん!」
教室を出ようとした俺に、突然声が飛んできた。ふりむいてみると、鮎川さんが俺を見て、手を振っていた。
「奇遇やなあ、こないなとこで何しとるん?」
「若葉くん……知り合いなの?」
てててと近寄ってきた鮎川さんと、佐々木さんに挟まれて動きがとれなくなる。
「ん、ああ、えーと……」
パニクった俺に、佐々木さんが助け船を出してくれた。
「鮎川さん、だったっけ。あたしは佐々木裕美。若葉くんとは同じ学科なの。よろしく」
鮎川さんもぺこんと頭を下げて、元気にこたえる。
「うち、鮎川あずさ。今日からこの学校に通うことになってん。んでな、なんでかっちゅうと……」
と言いかけたところで、表情が暗くなる。……まだ、ふっきれてないんだろうな、避難所生活のつらさを。
「俺から話すよ。佐々木さん、俺が一ヶ月、どこにいたか、知ってる?」
「ごめん、全然」
佐々木さんがばつの悪い顔をして、かぶりをふる。
「……そっか。俺、神戸にいたんだ」
「神戸? なにしに……って、あっ」
佐々木さんが言葉を飲む。
「避難生活の支援ボランティアだよ。結局1ヶ月」
「そうだったんだ……ホントに全然、知らなかったわ」
佐々木さんの顔色もちょっと変わった。
「それで……」
いいかけた俺のセリフを、鮎川さんがひきとった。
「うちが避難してた体育館にな、若葉のあんちゃんがおってん」
「んーそっかあ」
佐々木さんが鮎川さんに笑顔を向ける。
「……若葉くんの彼女って、こんな子だったんだ」
「ええっ」
俺と鮎川さんが同時に悲鳴をあげる。
「ちょ、ちょっと待ってくれ佐々木さん、いくらなんでも――」
「ふーん、若葉くんがロリコンだとは知らなかったなーっ」
佐々木さんはニヤニヤしているが、非常にまずい事態だ……。
「ねえ鮎川さん、彼のどんなとこが気に入ったの?」
さ、佐々木さん、あなた何を聞いてますか。
「あああ、あのー。う、うち、若葉のあんちゃんの彼女とちゃうよ?」
鮎川さんがわたわたしながら反論する。
「またまた。いまさら隠したって無駄よ?」
「かかか隠してなんかいませんー」
鮎川さんは手をぶんぶんと振り回してる。顔がもう真っ赤だ。
「ねえ若葉くん、君の彼女、たしかあずさちゃんっていったわよね」

 ――そのとき、言葉が凍りついた。

「……あんちゃん、そう、なん?」
鮎川さんが俺を見た。
「ああ……俺の彼女は、あずさ……瀬名あずさ、だった」
そして、あいつは……もう、この世にはいない。
「だった……って」
俺の表情から何かを読み取ったのか、佐々木さんも鮎川さんも言葉をなくした。
「そっか」
沈黙を破ったのは佐々木さんだった。
「おんなじ名前だっただけね。ごめん、早とちりしちゃって」
ぺろっと舌を出して見せるけど、それがおどけて見せただけのポーズだってことは、そこにいた誰もがわかっていた。
「……そろそろ、次、行こうか」
佐々木さんがいつもの調子で、ポンポンと俺の肩を叩く。
「そうだな……あ、鮎川さん。俺、ここの学生だから。また来るよ、たぶん」
「あたしも。じゃあね」
鮎川さんの表情からは、『どういうことなん?』が抜けてなかったが、
「ん、わかった。ほなな」
とひとこというと、自分の席に戻っていった。それを合図に、俺も佐々木さんも、教室を離れた。

2

 研究室を出ると、外はだいぶ暗くなっていた。

 ひさしぶりにお会いした指導教官と、ゼミの仲間にあいさつをすると、
「おつかれさま」
とだけ言われて、何も聞かずにノートを貸してくれた。
「……ゼミにおいつくのは自分の責任だからな」
だそうだ。まあ、ありがたいことではある。しかし、
「できたらレポートにまとめてくれないかなあ」
はないっすよ、先生。

 暗い道を寮へ向かって歩くと、途中に小さな公園がある。一応、子供が遊べるようにか、ブランコやすべり台くらいならある。
……そのブランコの一つに、人影があった。
「あ……あんちゃん」
その人影は俺を認めると、ブランコを降りて、てててと駆け寄ってきた。
「鮎川さん?」
「うん、うち」
鮎川さんは俺の服を捕まえると、
「なああんちゃん。教えて」
といきなりのたまった。
「……ん? 何を?」
「今日のこと。あんちゃんたち、なにしに教室来てたん?」
鮎川さんが首をかしげる。
「俺? 授業の見学だけど」
「せやからぁ、なんで見学なん?」
やっぱりわからないらしい。
「誰にも聞いてないの?」
俺が聞いてみると……。
「……」
鮎川さんは下を向いて沈黙してしまった。
「……だって、誰も教えてくれへんねんもん」
それだけを絞り出すように言うと、鮎川さんは俺の服をつかむ手に力を込めた。
……どういうことだろう。よくはわからないが、何かよくない兆候のようではある。
「そうだな……学校が大学付属だってのは聞いただろ」
「うん」
鮎川さんはまだ顔をあげない。
「俺はそこの学生で、教育学を勉強してる。わかる?」
「きょーいくがく……うーん、つまり、先生の卵なん?」
「ま、そんなとこ」
本当はちょっと違うんだけど。
「そっか。……って、もしかして、うちらモルモットなん?」
「ぶはっ」
痛いところをつつかれた。
「うわ、大当たりかいな。しゃあないなあ、もう」
そういう鮎川さんの顔に、少し笑みが戻ってきていた。
「ほな、せいぜい暴れたるで。覚悟しときや」
「わかったわかった」
中学生にからかわれるとは、俺もまだまだだなあ。
「……ところで、鮎川さんはなぜここに?」
「うん、こっちの親戚んとこにな、一時避難することになってん」
「そうじゃなくて。俺が聞きたいのは、こんな寒いところに、どうしてぽつんと座ってたのかってこと」
俺の詰問調にか、鮎川さんは目を伏せた。
「……」
「こんな暗い時間に、女の子がひとりで歩いてたら危ないぞ」
「……心配して、くれるん?」
心配しないわけないだろう。いくら学校の近くとはいえ、……いや、むしろ学校の近くだから、ロリコン痴漢が出没するかもしれないじゃないか。
……俺じゃないぞ?
「そっか、おおきにな……」
鮎川さんは小さな声で言ったあと、
「まあ、あんちゃんと話したかっただけ、かな」
と笑顔を見せた。
「……俺と?」
「うん。ここ、大学の帰り道やろ? あんちゃんが通りかかるで、って、裕美ねえちゃんにおそわってん」
裕美ねえちゃんって……あ、佐々木さんか。
「通りかからなかったらどうするつもりだったんだ」
「えー、絶対来るて思ってたもん」
その口調には、なんのてらいもためらいもなかった。どこからくるんだ、その自信は。
「……しょうがないなあ。とりあえず、帰ろう。送るから」
「うん……あんちゃん、送り狼はあかんで」
「待て、今更何を言ってる」
「あははは、それもそやなー」

「こっちやな」
鮎川さんは先に立って歩いている。その方角は、行けば行くほど寮と同じ方向だった。
「あんちゃんはどっちなん?」
「同じだな……」
「ふーん……あ、ここの角曲がったとこやな」
……え?
「ここ、俺が住んでる寮だけど」
「え、そうなん? ……たしかに、学生寮の空き部屋やとは聞いてたんやけど」
「もしかして、親戚筋の方って」
「うん、ここの寮監。うちのおかんの両親やねん」
たしかにここの寮は、二人ひと部屋制度のせいで、いつも空きがあるんだけど。……まあ、被災者の役に立った、って点ではよかったのかもな。

 玄関を入ると、寮監が見ていた。
「ただいまっす」
「おかえり。若葉くんとあずさちゃんか、どういう取り合わせだか」
「んふ。デートの帰りやねん♪」
「おいおい」
しゃれになってないぞ……。
「若葉くん、あずさちゃんはまだ中学生だぞ」
寮監がまじめくさった顔でいう。
「信じないでくださいよ寮監!」
「あははは、若葉のあんちゃんはからかいがいがあるなあ。ほなな、夜這いしに来たらあかんで〜」
鮎川さんは捨てぜりふを残して、廊下の奥へ消えていってしまった。
「……はぁ」
「若葉くん、たしかに最近の子は発育がいいけどな、まだ中学生なんだから。親御さんともよく相談して……」
「寮監! お願いです、信じないでください!」
……夜の寮に、俺の絶叫がこだました。

3

 数日のうちに、鮎川さんはすっかり寮のアイドルになっていた。そりゃあ、まったく女っ気のない(寮母さんすらいないんだぞ)、殺伐とした風景の中に、突然あんなかわいい娘が入ってきちゃあ、狼の群れの中に羊が一匹入り込んだようなもの。少々かしましかろうと全然かまやしないよな。それにあの子は、あんまり人見知りしないようで、寮生誰とでも仲よくなっているらしいし。とはいえ、寮生同士でも牽制しあっているのか、それともガードが堅いのか、ナンパに成功したやつはいないらしい。
……ちなみに、全部野庭情報だ。俺は見てみぬふりを決め込んでいる。

「で、野庭。おまえは?」
「ぼく? いやあ、他人の彼女を横取りするなんて、そんなことするわけないじゃないか」
「……待て。誰が誰の彼女だって?」
「ん? ちがったっけ」
「全然違うって。まったく、どいつもこいつも……」
「あはは、わりいわりい」
……まあ、でも、鮎川さん親子が、この場所になじんではいるようで、一安心だな。

 ……そう思っていたのは、俺だけだったらしい。

 ある午後、俺はまた実習に来ていた。見学するクラスは、鮎川さんのいるクラス。授業はいつものように、どうということもなく進んでいく。……だが、鮎川さんの様子が少しおかしい。あきらかにつまらなさそうだ。ほかの子たちは、付属気質というのか、試験を受けて来ているせいか、授業にもわりと熱心だというのに、元気が服きて歩いているような鮎川さんが、今にも寝こけそうなのは、いったい。
「……若葉くん」
となりにいた佐々木さんが、小さな声を出す。
「鮎川さん、授業から浮いてるわね」
佐々木さんも気づいていたらしい。俺はこくっとうなずくと、
「今は授業中だから」
と答えるにとどめた。佐々木さんもわかっていたようで、
「ん」
と短く答えた。

 授業終了後、俺と佐々木さんは、担当の先生を捕まえて話を聞いてみた。
「……担任じゃないので、細かいことはわからないが」
と前置きしたあと、先生は話し始めた。
「たしかに、鮎川がクラスから浮いている感じはする。小学校からの持ち上がり組が多いから、多少はあるかと思ってたが」
「そうですか」
「それにしても……」
先生はそこで言葉を区切った。
「それにしても?」
「……いや、なんでもない」
先生はかぶりを振ると、次の授業があるからと、足早に教室を立ち去った。
「……?」
俺と佐々木さんは、何かありそうだという気配は感じ取ったものの、それ以上の確証を持てないでいた。
――と、そのとき。

 ゆさゆさ。

 小さな地震だった。
「きゃあああっ!」
揺れたと思った瞬間、教室から悲鳴が聞こえた。教室のドアを開けてみると、とある机を中心に、人の輪ができていた。
「……どうした?」
近くの子に聞いてみるが、
「いま、ゆさゆさっと地震が来たらな、この子が急に叫んで、机の下に隠れた。そんな、こわいほどのことかなあ」
と、のんびりした口調で返事をされた。そして、その子が指さす机の下には。

 鮎川さんが小さくなってふるえていた。

「いややぁ……いや……」
泣きながら、頭を抱えて、何かから逃れたいかのように、かぶりを振っている。
「ちょ、ちょっとあけて」
俺は人の輪をかきわけて、鮎川さんに近づいた。
「鮎川さん」
「いやや……」
俺の言葉なんか耳に入らない。この小さな体のどこからわきだしてくるのかという恐怖から、ひっしに逃れようと、小さく、小さくふるえ続けている。
「佐々木さーん」
俺はいっしょにいたはずの佐々木さんをふりかえってみた。
「なに?」
佐々木さんは人の輪の外側にいた。
「鮎川さん、保健室へつれていこう」
俺がそう声をかけると、
「……そうね。悪い、ちょっとあけてくれる?」
佐々木さんは輪の内側に入ってきた。
「あずさちゃん」
そういいながら、佐々木さんは鮎川さんの髪にふれた。
「ひゃっ」
鮎川さんが小さな悲鳴をあげて、頭をひっこめる。
「あずさちゃん、だいじょうぶ、だいじょうぶよ」
佐々木さんがこんどは、小さく丸くなっている鮎川さんを、包み込むように抱きしめた。鮎川さんは、逃げようとはしないものの、まだふるえている。
「だいじょうぶ、裕美もいる、若葉くんもいるわ」
「……いややぁ……」
少しは落ち着いたんだろうか、鮎川さん。
「……若葉くん」
「はい?」
「あずさちゃんの髪、なでてあげて」
「え? でも」
「だいじょうぶ、もう落ち着いてるわ」
佐々木さんはにっこりと笑った。
「……わかった」
俺はそっと手を伸ばし、
「鮎川さん、俺だ、若葉だ。だいじょうぶだよ」
と声をかけながら、まだふるえの収まらない頭を撫でた。手に残る、頭の感触は、背丈と同様、小さなものだった。

「……あずさちゃん、落ち着いた?」
少しそうやって撫でていると、佐々木さんが鮎川さんに聞いた。
「うん」
元気はないが、話ができる程度には落ち着いたらしい。
「……保健室、いこっか」
「うん」
鮎川さんはうなずくものの、いっこうに立ち上がろうとはしない。
「若葉くん、悪いけど、背中貸して。おんぶ」
佐々木さんに促されて、俺は、
「わかった」
とだけ言って、鮎川さんに背中を見せた。……その背中に、ぎゅっと、誰かがつかまる感触があった。首に腕が回される。ふるえは止まっていない。
「ええと……」
ずるずると一歩前に出てから、俺はゆっくりと立ち上がった。
「佐々木さん、悪いけど、つきあってくれる?」
「ええ、いいわよ」
「……それからみんな、もう少しだけ残ってくれる? 説明したいことがある」
俺は回りを見回すと、子供たちの返事を待った。
「……はい」
二三の子供から返事があった。
「じゃあ行ってくる。待っててくれ」
俺はもう一度人の輪をかきわけると、教室を出た。

4

 保健室に鮎川さんと佐々木さんを置いて、俺は教室に戻った。
「待たせてごめん」
戻ってみると、残っていたのは三人だけだった。
「……まあいいか」
「あの子、どうしたんですか?」
たずねてきたのは、『学級委員長』の札を下げた女の子だった。
「……トラウマ、って言葉、聞いたことあるか?」
「あります。何か、とても嫌いなものをさすんですよね」
「ちょっと違う。……『いやなこと』のせいで、心に傷を負った状態をさすんだ」
「心に傷、ですか」
「そう。あの子は、あの大震災で、たくさんの友だちや親戚をなくし、彼女自身も死にかけるほどの目にあった。……だから、地震に対してトラウマをもってしまった」
「そんな、何かが壊れるほどの地震じゃなかったですよ」
委員長は首をかしげる。お下げ髪がゆれる。
「それがトラウマなんだ。ほんの小さなきっかけで、あのときの恐怖がよみがえる」
「……」
「正直、ピンとは来ないと思う。俺もそうだし。だけど、あの子にとっては、それは現実と同じなんだ」
……そして、大切な恋人、あずさを失った俺にしても、それは変わらない。
「……どうしたらいいでしょうか」
委員長が俺を見ている。
「そうだな……」
受け売りだけど。
「専門的な話は置いといて、君たちにできるのは、あの子を孤立させないこと。何があっても、君たちといっしょならだいじょうぶ、そう思ってもらうこと」
「……はい」
「心の傷は、あの子が自分で治していくしかないけど、でも、その手助けは君たちにもできる」
「はい」
「いい返事だ」
俺は精一杯、委員長にほほえんでやった。

 もう一度保健室に戻ってみると、鮎川さんと佐々木さんがいた。
「……落ち着いたか」
鮎川さんに声をかけてみる。
「うん」
鮎川さんが少しだけ微笑む。
「そうか。……佐々木さん、ありがとう」
今回は本当に、力になってくれたからな。感謝しなくては。
「ううん、いいの。だって、あなたの大事な――」
「冗談を言ってる場合ではない」
ずびし。
「あたっ。いったーい、ぶったぁ」
「若葉のあんちゃん、裕美ねえちゃんと仲ええんやね」
鮎川さんがなんだか楽しそうに言う。
「うっ」
「えっ……あ、やーねこの子。ませてるんだから」
「あ、図星やったん? ひゃは――」
ずびし。
「あたた。んもう、うちまで叩かんでもええやん」
「だから、そういう手合いの冗談は聞きあきた。十分元気みたいだから置いて帰ろう」
俺が立ち上がると、
「わあ、ごめんな堪忍な」
鮎川さんが手を合わせるまねをする。佐々木さんがくすくす笑いをする。……そんな冗談を言って笑っていられるのが、どれだけ幸せなことか、俺も鮎川さんも、よくわかっているはずだ。
「……ところで、ドクターは何か言ってた?」
ドクターというのは、学校医のこと。
「それが全然」
「全然?」
「うん。あたしたちがここへ来てから、若葉くんが帰ってくるまで、ドクター帰ってこなかったよ」
「は? どこへ行っちゃったのかね?」
「さあ、あたしにも」
……ってことは、ここまで鮎川さんを落ち着かせたのは、佐々木さんの功績、ってことか。
「ありがとう」
佐々木さんは……優しいんだな。
「え? あたしが何かした?」
「ずっと鮎川さんについててくれて」
「……うん。裕美ねえちゃんがぎゅってしてくれたから、うちも安心できてん」
鮎川さんが、ちょっと顔を赤らめながら言う。
「そお? んじゃ、もっとしてあげるね」
と言うや否や、佐々木さんは鮎川さんを抱きしめていた。ぎゅっと。
「ひ、裕美ねえちゃん……」
鮎川さんが真っ赤になっていく。見てる俺も、ちと恥ずかしい。
「鮎川さん」
ちょっと話題を変えよう。
「これから、授業、どうする? あと1コマあるけど」
「……うち、出たい」
鮎川さんがはっきりと言い切った。
「やめたほうがいいんじゃない?」
これは佐々木さんの意見。
「でも、うち出たい。勉強したいん」
こういうときにドクターがいないのは役に立たないと言えよう。もっとも、ここのドクターは外科医らしいので、それはそれで役に立たないのかも。
「うーん……若葉くんはどう思う?」
「俺?」
……難しい判断だな。だが、鮎川さん自身の意見は、尊重したい。
「いいんじゃねえかな」
「若葉くん!」
「……幸いにして、付属の連中は俺たちが見学しててもなんの違和感も抱かない。てことは、鮎川さんを授業に出して、俺が様子を見ててもあんまりおかしくない」
「わ、悪人……」
「ということでどうかな」
「うちはええよ」
鮎川さんがうなずいた。
「……あたしも出るわ。それでいいでしょ」
佐々木さんがちょっとふくれ気味に言う。
「むしろ出てくれた方が好都合だ。というか、頼もうかと思ってた」
「あ、そ……」
ちょっと肩透かしを食らったか、佐々木さんが目を丸くしている。

 しばらくして、人が入ってきた。
「……おや、だれかいらっしゃいますの?」
「ええ。ちょっと使わせてもらってます」
どうやら、ここのドクター……学校医らしい。
「ごめんなさいね、ちょっと会議でしたの。どうかなさって?」
のぞいた顔は、丸い眼鏡の女医だった。
「ええと、今は落ち着いていますが……ドクター、ちょっといいっすか?」
「え、何かしら」
さすがに、鮎川さんの前でパニックの話はあまりしたくない。

「……ああ、そういうことですのね」
「ということで、今は落ち着いていますが、またパニックをおこす可能性が……」
「そうですわね。ないとはいえませんわ」
外科医とはいえ、一応医師免許を持っている身。それくらいのことはご存じのようだ。
「でも、そんなにしょっちゅう、ってわけでもなさそうですし、次の授業くらいは出られると思いますわ」
「……ドクターと意見が一致して光栄です」
「あらそう」
若干皮肉を込めてみたのだが、完全に受け流されてしまった。

 チャイムが鳴った。
「休み時間ですわね」
先生がつぶやく。
「ええと、鮎川さんといったかしら。次の授業はどこかしら?」
「自分の教室です」
「そう。じゃ、いってらっしゃい」
「はい」
鮎川さんはベッドから立ち上がると、俺たちにぺこりとあいさつして、保健室を出た。
「俺たちも行こうか」
「うん」
俺と佐々木さんが立ち上がると、
「若葉くん、それと佐々木さん。あなたたちは、あの子についていっちゃダメよ」
ドクターにいきなり釘を刺された。
「え?」
「担任には連絡しておきますわ。でも、あなたたちはダメ」
ドクターは笑顔を崩さないが、その発言は辛辣だ。
「どうしてですか」
「あなたたちがいたら、あの子はあなたたちを頼ってしまうかもしれなくてよ」
それはたしかにあるだろう。
「それに、あなたたちもあの子に依存してはいないかしら?」
「……それは?」
「あの子が心配なのは、わからなくもないわ。でも、『自分達が見ていれば安心だ』っていう、変な安心感をもってはいないこと?」

 その言葉にはっとさせられた。
……たしかに、そう思ってたのかもしれない。

「心配なさらないで、私も気をつけておきますわ。それに、そういった精神障害専門のドクターも、私とは別にいらっしゃいますの」
「そ、そうなんですか?」
聞いてないぞ。
「ええ。付属小中学校は、ある意味、実験場ですもの。いろんな子たちが来ますのよ。ですから、それに対応できるだけの設備と人材くらいはありましてよ。くす」
だから、そんな話聞いてないぞ。
「よくできてること。……ドクター、お願いします」
佐々木さんはあきらめたらしい。
「わかりました……なんかあったら、すっとんで行っていいすか?」
俺はちとあきらめが悪い。
「あら。ダメ……とは申せませんわね。学部の方でしょう? 何もなくても実習にはいらっしゃいますもの」
「ええまあ」
「でも、手だしは無用のことですのよ。よろしいかしら?」
「はい……」
顔はやさしかったが、その口調は手厳しかった。

第3章 -- リードタイム

 それから一週間ほどが過ぎた。しばらく実習がなかったので、鮎川さんの様子を見る機会はなかったが、ドクターから何も来てないので、パニックは起こしていないようだった。

 しばらくぶりの実習は、学級会になっていた。
「……というわけで、卒業生を送る会なのですが」
委員長が黒板の前に立って発言する。
「毎年恒例で、送る歌の合唱をすることにはなっています。それには文句はないですよね?」
委員長、押し強いな。
「……」
皆軽くうなずいただけ。沈黙による合意、らしい。中学校からこれじゃあ、先がおもいやられるぞ……君たち。
「で、曲目なのですが。何かよいアイデア、ありますか?」
「……」
誰も何も発言しない。これ、と言ったものが思い浮かばないのかもしれない。とそこへ、鮎川さんが挙手をした。
「鮎川さん」
「うち、『切手のないおくりもの』がええ、思う」
「……はい。まずひとつ」
委員長は黒板に『切手のないおくりもの』と書いた。

「いやだね」

 突如、響いた太い声は、教室の後ろの方からだった。
「俺はいやだ。なんでそんなの、うたわなくちゃならないんだよ」
「……」
だれもがその少年に注目する。
「俺はそこの関西人のいうことだけは聞きたくないんだ」
「まて川崎、あいつだってクラスメイトなんだぞ?」
川崎と呼ばれた少年は、さらにつづけた。
「鮎川! てめえなんざ、俺たちの仲間じゃねえ! 神戸でもどこでも帰っちまえ!」
「ちょっと川崎くん! それ、どういう意味やのん!」
鮎川さんが立ち上がる。その手は怒りに満ちてふるえている。
「あずさちゃん!」
委員長が鮎川さんの手をぐっとつかんだ。
「ダメ、落ち着いて。……川崎くん」
「なんだよ、委員長までそいつの肩もつのかよ」
「ええ。……代わりのアイデアを聞かせてもらえるのなら、考え直すわ」
委員長はすっぱりと言い放った。
「なっ……」
「代替案もないのに、他人の意見をおとしめるだけなのは、討議する態度じゃないわよ、川崎くん」
そんなどえらい卓見、誰に教わったんだかしらないが、涼しい顔をして委員長が言う。
「な、なんだよぉ……どいつもこいつもっ」
川崎くんは立ち上がると、俺の前をダッシュし、教室を出ていってしまった。
「あずさちゃんも落ち着いて。わかった?」
「う、うん……」
委員長の剣幕に押された(いや、ただのサイドエフェクトなのだが)か、鮎川さんもふっと気を抜いて、席に座りなおした。
「ほかにありますか?」
委員長が見回す。いくつか手が挙がった。
「はい」
「……『それぞれの未来へ』」
「発売前なので却下です。ほかには」
まて委員長、なぜ知ってる。

「……『切手のないおくりもの』ということで決定します。みなさん、卒業式まで時間があまりありません。がんばりましょう」
「はい」
結局いくつかアイデアは出たものの、『切手のないおくりもの』が、そのまま票を集めて当選となった。
「譜面、だれか持ってます?」
委員長が見回すと、
「うち、持ってるで」
鮎川さんが言う。
「……あーなるほど、それは好都合ね。じゃそれコピーしていいかな」
言っておくが、それは著作権法違反になりかねんぞ。
「うん、でも、手書きのやし、あんまきれいやないよ」
……問題なさげだ。
「読めればだいじょうぶよ。……今日の討議事項は以上です。じゃ、先生」
「おつかれさま。じゃ、がんばってくれ。今日の連絡事項は――」

 結局、終礼が終わるまで川崎少年は帰ってこなかった。よっぽどいやだったのだろうか。
「川崎くんにも困ったものだわ……」
委員長もぼやき気味である。
「聞いてくださいよ若葉先生」
え?
「川崎くんって、いつもこうなんです。気に入らないことがあると、人を脅したり泣かせたりするんです」
「い、委員長さん?」
「末広智子です。委員長だからって、どっかで見た名前だなんて言わないでくださいね」
というか、何でそれを。発売前だっちゅーに。
「ホント困りものよ。付属幼稚園からの持ち上がり組だからって、いつもいばりっぱなし。まるで自分がエリートみたいなつもりでいるんです」
「……ねじまがった根性だな」
「というか、内弁慶? 付属の子がみんなあんなんだと思われると、あたしも困るんです」
「かく言う末広さんも?」
「ええ。あいつとは幼稚園からの腐れ縁ですから」
納得。あえて気にするわけも含めて。
「先生はどう思います?」
「んー。変なこというと墓穴掘りそうだな」
「先生っ。なんとか言ってやってください」
末広さんがふくれる。
「わわ、ごめんごめん。俺にも難しいよ。ああいう手合いになると、よって立つところがそれしかないだろうし」
「せ、先生! それ、ひどい!」
末広さんが真っ赤になって反論する。
「あの子だっていいとこいっぱいあるんですよ! わかんないとこ、教えてくれたりもするし、いじめっこから助けてくれたことも……って、そんなコトじゃなくて、ええとええと」
どうやら自分の言ったことでパニクったらしい。
「いやあ、わるかった。ごめん、言い過ぎたよ」
とりあえず謝っておく。
「い、いいんですけど……」
「でも、今はゆっくり、慣れていくしかないんじゃないかな。このクラスだって、全員が持ち上がり組ってわけじゃないんだろ?」
「……そうですね」
「何かいいきっかけがあるといいけど……合唱の練習が、それになるといいね」
「それもそうですね。がんばります、ありがとうございました」
末広さんはぺこっと頭を下げた。

「……俺、今日はしまいだけど」
鮎川さんに声をかけてみたところ、
「あ、ちょっと待っててな。うちも帰る〜」
てててと近寄ってきた。
「あずさちゃん、どういうことなの?」
まだそこにいた末広さんが首をかしげる。
「うん? うち、若葉のあんちゃんとこの寮に住んでんねん」
「同じうちってこと?」
「まあ……せやな」
黙って聞いてたら誤解を招くような発言だ。
「あのねあずさちゃん……あたしも行っていい?」
「え? 智子ちゃん、なして?」
「いっっっっぺん、あの学生寮の中、入ってみたかったのっ」
末広さんがあまりに力を入れて発言するので、鮎川さんがハデにこけた。
「そ、そないに力入れるほどのことかいな……」
「うんうんうん」
なぜか末広さんは、頭を縦にぶんぶんとふった。
「……やて。どないしょ」
疲れた表情で俺を見る鮎川さん。
「断る理由はないな」
どうしたものかとは思うが、俺にも打つ手はひとつしかない。
「まあ……なあ」
「わあい、やったぁっ!」
なぜにそんなうれしそうですか末広さん。

1

「ただいまっす」
今度は三人で戻ってきた俺を見て、寮監が言うには。
「……修羅場か?」
どげし。
「うおっ。な、何をするか」
「寮監、ふざけんのもほどほどにひとつ」
「この方が寮監さんですの?」
末広さんが聞く。
「あー。人の話を聞かない寮監」
「くらっ、どういう紹介の仕方か」
寮監がどなるが、
「お、珍しく聞いてましたね」
俺は軽く流す。
「あのーっ」
末広さんが割り込んできた。
「あのあの、できたら、寮の中見せていただきたいんですけど」
「だってさ。寮監」
「ううむわかった。ついてきなさい」
寮監が難しい顔のままうなずく。
「はあい。……あたし、大学に入ったらここの寮に入るんだあ」
ちょっと、末広さん?
「ストップ。ここは男子寮。女子は入れないよ」
俺が言うと
「え……ええーっ!!」
いかにも初めて知りましたという顔で末広さんがショックを受けている。
「ねえ寮監」
「むむ……この子が入ってくるまでには、規則を変えてやるっ」
おい寮監。そりゃ立場乱用っていわんか?
「わあ、お願いします」
す、末広さんも……。

「なんでやねん……」
そのやりとりに呆然としていた鮎川さんが、寮監と末広が立ち去ったあとを見つめながら、ひとこともらした。
「それだけ、学校に愛着があるんだろうなあ」
「……さよか」
「にしても、男子寮だってことを知らないとは」
「うちとお母ちゃんが入ってたの、見てたからかもしれんで?」
「……どう考えても、それ以前からだろ」
「それもせやなあ……」
謎だ。……というか、そんなに遠くから通ってるわけじゃないんだから、寮にはいる必要、ないんじゃないか?

2

 大学生というのは、3月になるとたいてい暇である。なぜなら、試験は2月末から3月頭にかけて行われるし、そのあとは入試の準備と実施と合格者発表とかなんとかで、構内に入れないことの方が多いからである。俺はその間、図書館と付属中学を往復する生活をしていた。ここの付属は便利なもので、担当の先生に申告をしておけば、いつだって授業見学ができる。こうやって見学レポートを何本か書けば、卒業論文のネタ探しに役立つらしい。先輩の知恵である。

 中学生はそうでもなくて、3月いっぱいまで授業はあるので、放課後や『ゆとりの時間』を使って、卒業式の出し物の準備をしなければならない。鮎川さんのいるクラスも、そうやって進めているはず、だった。
ところが。

 佐々木さんは、ピアノの腕を買われて、練習指導をしているという。
「どうもうまくなくてね」
彼女にしては珍しく難しい顔をしているのに気づいた。
「うまくないってのは……どう指導したらいいかってこと?」
「それはだいたいいいんだけど……」
表情はさえない。
「……なんていうか、気持ちが入ってないのよね」
「ふうん」
「特に男子がふざけるしサボるしで、3分の1くらいしか練習が進んでないの」
「……」
思い当たる節が、ないわけじゃない。
「川崎くんか」
「彼だけじゃないわ。彼に同調する一群がいるのよ」
……そうか。
「俺、見に行ってもいいかな」
「そうして。あたしじゃ手に負えないのよ」
中学生というと、そんじょそこらの大人より体格がよかったりするしな。

「こんにちは、今日も練習、始めましょうか」
佐々木さんと俺とが教室にはいると、そこにいたのはクラスの3分の2。
「……またか」
佐々木さんがつぶやくのを、俺は聞き逃さなかった。そういうことか。
「そうだ。今日は、若葉くんを観客として想定してみましょうか」
俺?
「ということなので、若葉くん、一番奥へ座って」
「……うい」

 指揮は佐々木さんがとった。柔らかい腕のふりが、子供たちの歌声を引き出していく。……たしかに、ただ流していくだけの感じがする。アクセントがついていない、ただ音符を並べているだけの……。
「うーん……もっと表情豊かにできるはずなのよね」
悩む理由もわかる。
「たしかに、佐々木さんの言う通りだった。なんか表情がない感じがするね」
俺も率直なところをのべた。
「たしかに、音を並べるだけじゃダメなんだよなあ」
俺は何気なく立ち上がって、佐々木さんが譜面台に置いていた譜面を、見るということもなく見てみた。

「……!!」

 それは手書きの譜面だった。
そして、そこに書かれている指示、歌詞の字に、見覚えがないはずがなかった。
「あ、あずさ……」
「ど、どしたの若葉くん」
「あずさの字だ、これっ!」
譜面を台から奪い取ると、俺はその譜面を穴があくほど見つめた。……そうだよ、あいつが一番愛した歌。俺のためだけに歌うと言ってくれた、あの歌。その歌の、あいつが自分で書いた譜面が、どうしてこんなところに……。
「あずさって……」
佐々木さんの声。
「うちやない。うちも、もらったものやもん」
……鮎川さんの声。
「てことは……」
「間違いないよ……こんなに見覚えのある字はない。瀬名あずさの字だよ……」
俺は泣いていた。
こんなところで、こんなかたちで、あいつに再会するなんて。
「あいつが一番好きだった……『切手のないおくりもの』……」
「若葉くん……」
「あんちゃん……」
あいつの思い出が、胸の奥にしまったはずの思い出が、少しずつ流れ出してくる。

「……練習、やめようか」
佐々木さんは譜面のない譜面台に向かうと、みんなに呼び掛けた。
「先生もちょっと考えてみる。みんなも考えてほしいんだ、どうしたらもっと、気持ちが伝わるように歌えるか」
「はい」
返事は聞こえるが、とまどいのほうが大きそうだ。そして、がやがやという声とともに、子供たちはみんな、教室を出た。
「……ごめん。俺のせいで、練習やめさせちまったな」
俺は佐々木さんに頭を下げた。
「しょうがないなあ……」
佐々木さんがため息をついた。
「そりゃあ、気持ちはわからないでもないけどさあ」
「ほんと、すまん」
頭が上がらない。……上を向くと、涙がこぼれそうだった。
「あんちゃん」
鮎川さんの声。
「うちな、この歌、大好きやねん。……仲のよかった、近所のお姉ちゃんに教わった、大事な曲。うん、たしか、瀬名さんていうたわ、その人」
「……鮎川さん、この譜面、もしかして」
「うん。そんときにもろうた。写しやけど、よかったら、ゆうて。うたい方もいっしょに教わってん、全部やないけど……」
そういうと鮎川さんは、歌い始めた。

 わたしからあなたへこの歌を届けよう……

 その声に俺は、在りし日の瀬名あずさの歌声を重ねて聞いていた。あいつの声は、いまもこの胸に、しっかと刻まれている。あいつの優しい心が、いっぱいにつつまれている、優しい歌声が……。
「若葉くん」
「……うん?」
すっかり聞き入ってしまった俺に、佐々木さんがつぶやく。
「これでいいんだよね?」
佐々木さんも聞き惚れてしまったらしい。
「ああ。十分だと思う」
「……どうして、みんなだとできないのかしらね」
「……」
その疑問に、答えるすべを、俺は持ってなかった。
……いや、持っていたけれども、伝えるすべがなかったのかもしれない。

3

 翌日。今日から放課後にも練習をやるというので、佐々木さんはしばらく通いづめになるらしい。……で、なんで俺もここにいるんだろう?
「ま、気にしない気にしない」
そういうものなのか?

 佐々木さんによれば、技術的なものは一応できているという。
「本格的に合唱コンクールに出ようってわけでもないんだもの、これだけできていれば合格よ」
だそうな。
「でもね……」
その先は昨日聞いたのと同じセリフだと思う。
「もういいから」
……そこでふと思い立った。
「佐々木さん、昨日のこと、覚えてる?」
「なに、昨日のって」
「鮎川さんが歌ってくれたよね」
「……あ」
あのイメージが少しでも伝われば、きっといい合唱になるはずなんだけどな。
「たしかにそうね。あずさちゃん、頼みにくいんだけど、おねがいできるかしら」
「えー、うち恥ずかしい」
鮎川さんが口を尖らせる。大勢の前で歌ったことなんて、ないんだろう。
「あーずっさちゃん? ね、お願いだから」
「えー」
すると佐々木さんが、壇を降りて、鮎川さんに近寄っていった。
「な、なにするん」
「あずさちゃん。ちょっと耳かして……」
「え?」
ごにょごにょ。
「わーっ! わかったわかったぁ、そんなうちいじめんといてえな。やります、やりますよぉ」
……な、何をふきこんだのやら。
「ピアノは……いらないかな」
「うん」
鮎川さんはかるくうなずくと、歌い始めた。

「……こんなんやけど」
歌が終わっても、しばらくは言葉がなかった。
「うちが教わったんは、ひとつだけやねん。『話すように歌うてみ』って。自分の大事な人に、話すように歌うたら、きっといい歌になるて」
……あずさらしい教え方だな。歌は技術じゃないって、いつも言ってた。気持ちがこもってない歌ほどつまんないものはないって。
「あいつらしいな」
「え?」
佐々木さんが俺を見た。
「うん? いや……あずさ、あ、瀬名あずさらしい教え方だなって」
「ふうん……」
「そうだ」
それなら、いい練習法がある。
「歌の練習は一時中止。歌詞を朗読するといいんじゃないかな」
「……なーるほど、そうね。そうしましょう」
佐々木さんも納得したらしい。
「みんなにもきっと、お世話になった先輩とかいると思うの。その人に向けるつもりで、朗読してごらんなさい。はい」
「……」
誰もが押し黙っている。
「そんなに難しいかしら。みんな部活とかやってないの? 勉強勉強塾勉強、そればっかり?」
佐々木さんが皆を促すが、
「……」
誰も何も言わない。……ひとりが、ぽつんと首を縦に振った。
「そうか……」
それが一番、大きな理由なんだ。この学校でも、縦のつながりが希薄になってきてる。俺たちの先輩の時代みたいに、先輩が後輩の面倒をみる、なんてことは、なくなってきてるんだな。それどころか、みんな自分の面倒をみるので、せいいっぱいなんだ。
「……そっか」
佐々木さんも困ってしまったようだ。
「それだからある意味、お山の大将がはびこるのかもなあ」
「誰のこと?」
「……さあ」
とぼけて見せたが、佐々木さんには通じたらしい。
「強制的にどうこうすることもできないんだ。有志だけでやるのも、それはそれで――」
「それはダメです!」
突然、委員長……末広さんが声を上げた。
「それはダメなんです……やっぱり、全員でやりたいんです」

「先輩方にできる、あたしの最後のおくりものですから……」

「え、智子、どういうこと?」
生徒の中から、声が上がる。
「あのね。みんなには今まで黙ってたけど、わたし、3月いっぱいで別の学校へ移るの。お父さんの転勤で……」
だから、末広さんは、この合唱が、自分にできる最後の仕事だと思ったんだ。
「たしかに、ひとりひとりの先輩には、お世話になっていないかもしれないけど、でも、先輩がいて、わたしたちがいて、後輩がいて……」
「その連環は、ずっとつながっていくわ」
佐々木さんが言葉をつなげた。
「先生……」
「それじゃあ、こうしましょう。みんなは、智子ちゃんのために歌うの」
「え?」
末広さんが目を見張っている。佐々木さんは続けた。
「それもダメだったら、自分のためでもいいの。何のためでもかまわない。みんなさ、あなたたち自身がいまここにいるために、いろんな人のお世話になってきたと思う。その人たち、みんなのために」
「……」
みんな、きょとんとしている。そりゃあ、こんな大きな話、すぐにはわかるまいて。
「それが誰かなんて、具体的に思い浮かべる必要もないわ。未来にいる人だっていいし」
……?
「わからないかな。ちょっとむずかしかったかしら。……今日はここまでにしましょうか、みんな考えてきてね」
……それで練習は解散になった。
「歌をうたうことなんて簡単だと思ってたけど……意外とたいへんなのね」
佐々木さんの率直な感想。
「自分が歌うんじゃないから、よけいにだろ」
「それもあるわね、うん……若葉くん、やってみる?」
「え?」
……俺にこの歌を歌えと?
「あははは、いや、さすがに冗談よ」
悪い冗談はよしてくれ。

4

 驚いたのは次の日だった。練習にクラス全員がそろっているじゃないか。どういった風の吹き回しだろう
「……もう一回、復習からやったほうがいいかしらね」
佐々木さんもちょっととまどい気味。
「すみません、先生、お願いします」
川崎くんが頭を下げる。
「わかったわ。……ちょっと、厳しいわよ」
「はいっ」
元気がいいことだな、少年。

 次の日も、皆そろっていた。一時期抜けていたはずの川崎一派も、ぐんぐんと実力をつけている。へたをすると、ずっと練習に参加していた子たちよりも上手になっていたりする。
「……やればできるんだなあ」
そんな妙な感想をもった。

 その日の練習終了後、外で川崎くんを見掛けた。鬼気迫る表情で、必死に楽譜を読んでいた。
「川崎くん」
俺が軽くぽんと背中を叩くと、
「うわぁっ」
川崎くんはかなり驚いた様子だった。
「お、おどかさないでください先生……」
「いや悪い悪い。そんなにおどかすつもりはなかったんだけど」
そういいながら俺は、川崎くんのとなりに座った。
「……熱心だな」
「ほっといてください」
「いや別に。からかうつもりなんかないよ、がんばってるなって思っただけ」
「……」
川崎くんはまた楽譜に目を落とした。その譜面には、あずさの字だけじゃなく、彼のらしい、あまりきれいとは言えない字も書かれていた。本気で取り組んでいるのがよくわかる。
「……がんばれ、川崎くん。あっと、声は出しすぎるな」
「……」
川崎くんは知らんふりをしている。これ以上じゃまをすることもあるまいと思って、俺は立ち上がった。
「……先生」
川崎くんが、顔を伏せたままつぶやいた。
「何だい」
「俺の気持ち、歌にして届きますか?」
……少年の目は真剣そのものだった。
「ああ」
俺ははっきりとうなずいた。
「きみに伝えたい想いがあるなら、かならず届く。……俺もその歌に、想いを届けてもらったからね」
「え?」
川崎くんが興味を示したようだ。
「そこの隅の方に『あずさ』って名前が書いてあるだろう」
「……はい」
「それは、俺の彼女だった人の名だ」
「つまり、この歌は、先生にとってはコクられた歌なんですね」
「まあ、な」
そう言いきられると照れるぞ。
「で、その人とはどうなったんですか」
「聞きたいか……?」
興味半分で聞いてるのかと思ったが、少年はずっと真剣な眼差しをしていた。
「……いいだろう」

 俺とあいつは幼なじみだった。
ひさしぶりにあったあいつが、俺に歌をうたってくれた。
……心のすべてを託して。
けして変わらぬ想いを託して。

「……そしてあいつは、これを残して逝っちまった。阪神淡路大震災の犠牲になってね」
「そ、そんな……」
川崎くんが俺の服をつかむ。よほど驚いたのかもしれない。
「それでもな」
俺は言葉をついだ。
「この歌がある限り、俺の胸に、あいつは生きてる。あいつの思いも、変わらず、生き続ける」
「……」
川崎くんの目に、涙が浮いていた。俺も泣いていたかも知れない。
「だから、言いたいことがあるなら、どんと言え。……言えなくなってからじゃ、遅いから」
「……」
川崎くんはしばらく俺をじっと見つめていたが、やがて力強くうなずいた。
「……先生、俺、やります。勇気がでてきました」
「そうか……がんばろうな」
「はいっ」
「いい返事だ」
何を思っているかは、聞かなくてもいい。そうだろう?

「……ところで先生」
「ん?」
「どこか今晩、泊まれるところ、ないですか?」
どうしたんだ急に。
「俺、うちに帰れないんです」
どういうことだ。
「……俺、家出してきちまいましたから」
「どうしたんだ、いったい」
「俺が合唱やる、って言ったら、父に『出ていけ!』と言われたんです」
「はぁ?」
つながりがわからない。

 ……詳しく聞いてみたら、どうやらこういうことらしい。そもそも川崎くんの父親が卒業生を送る会を実施することに反対しているらしい。彼があの学級会で反対意見を言ったのも、その意趣が入ってなかったとはいえない。……まあ、あれはひどいので、お灸をすえておいたが。
なぜ反対なのかはよくわからないが、川崎くんが参加すると言ったとたん、『おまえのような敗北主義者はいらん。出ていけ』と、いきなり切られたというのだ。

「俺にもよくわからないんです。なんであんなに父が強硬なのか」
川崎くんがうなだれる。
「もう俺、どうしたらいいんだか……」
「仕方ないな。とりあえず、うちでもくるか?」
俺にもどうしようもないが、こいつを放棄するわけにもいかない。ぽんと肩を叩くと、
「すみません、先生」
うなだれたまま、川崎くんは立ち上がった。

5

「若葉くん」
その翌日、佐々木さんが深刻な顔をしていた。
「……困った事態になったわ」
「佐々木さんが言うんだからよほどだな」
俺の軽い冗談にも、
「……ふぅ」
ため息でしか応えなかった。
「ため息つかれてもな。何がどう困ったのか、言ってくれなかったらわからないよ」
「……あ。聞いてないの?」
「だから何を?」
「これだから朴念仁くんは。……あのね、教室が使えなくなったの」
佐々木さんが少し怒り出した。
「教室が……なんの?」
「練習のよ」
頬が膨らんできた。
「練習……合唱の?」
「そうよ!」
ばん! と机を叩く音が響いた。
「こともあろうに理事会でダメだって言われたんですって! いったい何考えてるのかしら」
「……」
何が起こっているんだろう。教室まで使えなくするって……。
「ねえ若葉くん、いい練習場所、ないかしら。ここから近くて、少々大騒ぎしても平気で、おおぜいが入れて」
「俺に聞かれて……あっ」
場所ならあるぞ。たぶん。
「あって、なに? 思い当たる節でもあるの?」
佐々木さんの顔に、期待感が浮かんでいる。これはなんとかしないと。
「ちょっと当たってみる。使えるかどうかは、交渉次第なんでな」
俺は立ち上がった。
「あたしもついてっていい?」
佐々木さんも立ち上がった。
「……いいけど」
そういうと、俺は振り返らずに歩き始めた。

「……つうことなんですけど」
俺は寮監と直談判していた。寮の食堂、ここは普段空いているし、寮にまで声が届かないし、それなりには広いし。そもそも時々どこかのヘタクソ素人バンドが演奏会なんぞやってるくらいだからな。
「合唱の練習でしばらく貸してくれと。使うぶんには全然問題ないぞ。一応空いてるからな」
「寮の食堂とは考えたわねえ」
佐々木さんも感心した様子。
「しかし、中学生の合唱だろう? 教室とか使わせてもらえるんじゃないのか」
寮監もさすがに不思議そうだ。佐々木さんが説明する。
「実はですね……」

「よく理解しかねるな」
佐々木さんの憤慨が寮監にうつったらしい。
「子供たちに説明できませんよ、こんなの」
「まったくだ」
ふたりしてうんうんとうなずいている。
「……まあ、しばらく寮食堂は使ってもらってかまわない。いいね」
そういって寮監は立ち上がった。
「はい、ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
「やるじゃん」
佐々木さんの笑顔に、とりあえず報われた気がした。
「でもさ」
もう一つの困った問題がある。
「楽器があるわけじゃないのよね。ピアノは無理だとしても……なんかないかしら」
佐々木さんが困った顔をする。
「寮の素人集団からなんか借りるか?」
俺は何人かの楽器持ちを頭に浮かべながら言ってみた。
「あたしがピアノしか弾けないのがねー……」
「キーボードとかは弾けないの?」
たしか山崎とかいうやつが持ってたはずだな。
「弾けないわよ」
「そういうものなの?」
「そういうものなの!」
ううむ、ピアノも弾けない俺にはよくわからない感覚だ。
「……そうだ若葉くん。君はたしかギター持ってたわよね」
「ないよ」
……そのギターは、あいつとともにいっちまったから。
「え?」
「じゃあ借りてくるから。たのんだわよ」
そういうと佐々木さんは、そそくさといなくなってしまった。
「え、ちょっと待って、待てってば……」
佐々木さんは佐々木さんで、ギター弾きは何でも弾けるとか思ってるんだろうか? ……弾けるけど。たぶん。

 30分後、ギターを持った佐々木さんと、子供たちが寮食堂に集合していた。
「……やるとなったら早いなあ」
佐々木さんの行動力には恐れ入るほかなかった。
「さ、若葉くん。たのんだわよ」
「え、ええっ」
アコースティックギター。あのとき以来、2ヶ月くらいはさわっていないと思う。それだけのブランクがあると、ギターというのは、あっというまに弾けなくなる。ふつうは。
「……」
俺は一応構えてみた。少しずつ、音を出してみる。……やっぱり、あの曲だけは、指が覚えていた。
「わたしから、あなたへ……」
あいつが歌ったのと同じようにはいかないけれども、それでも、精一杯歌ってみる。
「……この歌をとどけよう」
子供たちがついてくる。佐々木さんも歌っていた。

「……これよ」
佐々木さんがうなずきながら言う。なんだか興奮気味だ。
「みんな、わかった? やればできるじゃない!」
「若葉先生の声聞きながら歌ったんです」
ある子が言う。俺の声?
「若葉先生の歌、すっごく気持ちが入ってました」
ほかの子も言う。
「先生……」
「先生」
俺のまわりに、子供たちが集まってきた。
「よしみんな。今の気持ちを忘れないように、もう一回歌おう。若葉くん、お願い」
佐々木さんが輪の外から声をかける。
「いいかい」
俺がみんなを見回すと、みながうなずいた。
「じゃあ……」

 練習は1時間ほどつづいた。もう細かい指導はいらないと思う。
「もちろん、完璧ってことは全然ないわよ。でも、これだけ歌えれば、3年生に聞かせても、先生がたに聞かせても恥ずかしくはないわ。ええ、たった1ヶ月でここまで仕上げたんですもの」
佐々木さんは胸を張って言う。
「誉めてるんだかそうでないんだかよくわからないが……」
「今日はこれで終わりにしましょう。またあしたね」
俺の意見は無視されたらしい。

「……若葉くん」
子供たちが帰ると、食堂は静かになる。残っているのは、俺と、佐々木さんと、鮎川さん、それに川崎くん。
佐々木さんが俺の隣に座った。
「本番でも、ギター弾いてもらおうかしら」
「勘弁してくれ。冗談抜きで」
まさかあの講堂で、ギターが聞こえるわけはないんだろうけど、でも俺の腕ではなあ。
「あははは。はいはい」
佐々木さんが笑った。
「……でも、すごい威力だったわ。あたしが2週間も苦しんだ最後の一歩を、いとも簡単に打ち破っちゃうんだものね」
「そうかな」
「そうよ」
……でも、それは俺の力じゃなくて、クリスマスの歌姫が残した、最後の灯火なんだ。
「あと3日。もう、何も教えることもないし、新しいことを教えたところでこなせないと思うわ」
「3日か……川崎くん、相変わらずうちには帰れないのかい」
「え、どういうこと?」
佐々木さんが驚いた。
「……圧力をかけているのは、たぶん、うちの父です」
川崎くんがうなだれる。
「なんでやねん……」
鮎川さんがあきれている。
「理由はわかりません。父は、卒業生を送る会の実施自体に反対しているようです。それで、こんなことを……」
「それとキミがうちに帰れないことと、どんな関係があるのよ」
「俺が『参加する』と主張したら、放逐されました」
「な……なにそれっ!」
佐々木さんも理解できないらしい。
「ほんまなん?」
鮎川さんもわからないといった顔だ。
「本当です……鮎川さん、あのときはすみませんでした」
「うちは、過ぎたことは忘れる主義やねん。そら、たった数日しかいっしょにいてへん人間、仲間ともおもわれへんわな……」
鮎川さん、忘れる主義っていいながら、傷えぐるのうまいぞ。
「ううっ、本当にごめんなさい、もう勘弁してください」
ほら、川崎くんが土下座してるし。
「ほな、一発だけ、はたかして」
鮎川さんが笑顔で言う。
「……はい」
川崎くんがおとなしく従った。

 ――パァン!思いきった腕のふりから繰り出された乾いた音が、食堂じゅうに響く。鮎川さんのこんな小さな体のどこにそんな力があったのか、川崎くんが吹っ飛ばされ、転がっていく。

「……うちが受けた心の痛みは、こんなもんやなかったんよ」
鮎川さんがつぶやくのを、俺は聞き逃さなかった。
「まわりのだれもが知らん人ばっかで、さびしい想いしてるときに、あないなこと言われたら……」
鮎川さんの声が、鼻声に変わった。すん、という鼻の音がした。
「傷ついたんは、うちだけやない! 智子ちゃんかて、傷ついたんやで! あんたのこと、いっしょけんめ信じてた智子ちゃんが、どんな思いであんたのあのセリフ聞いたか、考えてみたか!?」
「……」
川崎くんは、まだ立ち上がれない。
「あんたが裏切ったんは、うちだけやない、あんたのほんまの『仲間』も、いっしょに裏切ってもうてんで!」
「だから……」
川崎くんがようやく起き上がった。
「だから、その……」
でもまだ、言葉にはならない。
「一生懸命、合唱やってるんやろ?」
それを受けたのは、意外にも鮎川さんだった。
「うん」
川崎くんがうなずく。
「せめてもの罪滅ぼしに、てな。な? ……笑わせるんやない!」
鮎川さんが大声を出す。
「そないなことくらいで、罪滅ぼしになんかならへんわ! ほんまにあんたのこと好きやった子ぉまで裏切っといて……」
そこではっとしたかのように、鮎川さんは口に手を当てた。視線の先を追うと……そこに、委員長がいた。鮎川さんの横をすり抜け、委員長は川崎くんの頭に手をおいた。
「川崎くん」
川崎くんが顔をあげる。
「……す、末広……ごめんな……」
そしてもう一度、顔を伏せる。
「もういいの」
委員長のそのことばに、川崎くんがはっとした。
「もういいのよ。……川崎くんの気持ち、わかったから」
委員長は川崎くんの前で膝を立てて座った。
「……川崎くんのことならなんでもわかるよ。だって、ほんとに……ずっといっしょだったから。だからもういいの」
委員長の手が、やさしく川崎くんの頭を撫でる。
「……ごめんな……ごめんな……」
川崎くんはそればかりを繰り返していた。
「……」
毒気を抜かれた格好の鮎川さんが、やるせなく立っている。俺はそのちいさな肩にふれた。
「うっ……ふわ、うわああああん」
泣き出してしまった鮎川さんに、俺ができることは、その体を軽く抱き止め、髪を撫でてやることくらいだった。

第4章 -- アップ・トゥー・デート

 卒業式の日。

 俺は都合上、研究室にいたのだが、
「若葉のあんちゃん!」
というデカい声に、静かに睡眠中……げふんげふん、文献探索中の俺は、飛び上がるほど驚いた。じゃなくて飛び上がって足を机にぶつけた。
「あた! いててて……」
「あんちゃん! アホやってる場合やないで!」
鮎川さんはかなり慌てているようだ。
「わ、見てたのか」
「それよりな。付属中、えらいことになってるで」
「……どうした」
「それがな。入り口っちゅう入り口に警備員が立っててな、卒業生とその親しか入れへんらしねん」
「先生は入れないのかい?」
「そういういらんツッコミしとる場合ちゃうっちゅうねん! ほんまにえらいこっちゃねん」
……本当だとしたら、またたいへんな事態になったものだ。理事会は動かすわ、職員に圧力かけるわ、あまつさえ警備まで使うとは……。
「とりあえず見に行くから」
「はよう、はよう!」
鮎川さんにせかされ、俺は研究室を出た。

「……なんなんだこの厳重さは」
たしかに鮎川さんの言うとおり、入り口という入り口に、4人以上で警備員が張り付いていた。特に卒業生が出てくるであろう正門前には、ジュラルミンの盾を持った警備員までいる。つか、本当にただの警備員か? 機動隊とちがうのかこれは?
「な」
「なって、見ればわかるけど……」
「どないしょ。これじゃあうちら中へ入られへんもん、送る会もなんもあらへんわ……」
鮎川さんはしょげていた。たしかにここまで一生懸命練習したんだ、その成果を見てほしいだろうに。
「あ、若葉くん」
佐々木さんの声がした。その声に張りがないのは、誰が聞いてもわかっただろう。
「……やれやれ。子供のケンカにどうしてここまで出張るのかしら」
「ああ、やれやれだ。ここまでするとは、よほど頑固で権力もちの親父らしいな」
「そうよね。機動隊まで使う、ふつう?」
「……あれ、機動隊か?」
「どうもそうみたいよ」
おいおい。ムチャするなあ。
「……10時。卒業式が始まった頃ね」
中の様子はさっぱりわからないものの、佐々木さんは式次第を入手していたらしく、時間の予想を立てる。
「式が終わるのに1時間もかからないと思うわ。その間に、打てる手を打たなきゃ」
「そうだな……とりあえず、子供たちをそこの裏手へ集めようか」
中へ入れるにしろ入れないにしろ、子供たちにこのことはちゃんと知らせておきたいし、自分の目で見せてやりたい。
「警備員から見えるところじゃまずいものね」
追い散らされる恐れもあるし。
「ああ。頼める?」
「まかせて。ちゃんとアップもしておくわよ」
「……気が利くなあ、もう」
「乗り掛かった船だもの。最後までつき合うわよ。……若葉くんのことだし、ね」
佐々木さんは軽く手を振ると、どうやら寮の方へ向かった。
「なるほどな」
納得。
「ん? あんちゃん、何がやの?」
「……みんな、寮食堂にいるのか?」
鮎川さんがうなずく。
「うん。あそこなら場所、みんな知ってるし、ここからもそんな遠ないし。んで、うちが先見隊って見にいったら……このザマやねん」
「立派に役割果たしたわけだ」
「果たしとうなかったわ、こんなんなら」
鮎川さんはふくれていた。ははは、気持ちはわかるよ。
「……あれ?」
注意が警備員からそれている間に、少年らしき人影が正門前に立っていた。
「……! ……!!」
声はよく聞こえないのだが、言い争いをしている。
「……!!」
この状況だ、警備員に聞く耳などあろうはずがないが、少年は食い下がる。……あ、少年が警備員の服をつかんだ。
「……あれ、川崎くんやん」
鮎川さんがつぶやいた。
「俺にはよく見えないのだが」
「まちがいあらへん! あれ、川崎くん!」
だとしたら、勝手に先走ってとんでもないことしかねないぞ。止めないと!

「……!!」
……一歩遅かった。川崎くんが両手を振り上げたところへ、警備員のジュラルミンの盾が飛んだ。川崎くんの体がすっとぶ。地面にころがった川崎くんが立ち上がり、よろよろと警備員に近寄るが、今度は蹴りが入った。頭から地面にたたきつけられる。どこか切ったのか、頭から血が出ている。口から吐いた痰は、血の色をしている。
「やめろ川崎くんっ!」
ようやく追い付いた俺は、川崎くんを羽交い締めにした。
「せ、先生! 放してください!」
腕の中で川崎くんが暴れる。体力的には、並の大人と変わらないくらいの少年。おさえるのだけでせいいっぱいだ。
「放してくださいよ先生! 俺にはやることがあるんです!」
どうやら頭の皮を切ったらしく、額を血に染めながらも川崎くんは暴れ続けた。
「何をだ、川崎くん!」
「俺にはあいつの、末広の夢を守る義務があるんです!」
「だからって!」
「だから先生! 放してください! このままじゃ、あいつは夢を壊されたままになってしまいます!」
なおも川崎くんは暴れ続ける。体格の差があるぶん、俺のほうが有利ではあるが、それでも押さえるのがせいいっぱい。
「川崎くん!」
そこへ飛んできた声は、佐々木さんと、……委員長、末広さんの声だった。
「若葉くん、川崎くん、だいじょうぶ!? ……川崎くん、血が出てるわよ!?」
「……このくらい全然平気です!」
頭部を強打している以上、あまり平気だとも思えないのだが……。

「川崎くんっ! やめてっ!!」
委員長が叫んだ。
「やめて、川崎くん! あなたが傷つくのを、これ以上見たくない!」

 川崎くんの全身から、力が抜けるのがわかった。今なら、向こうへ搬送できる。
「す、末広……」
「やめて川崎くん。川崎くんの気持ちもわかるけど、でも、傷ついてはほしくないの」
委員長の目に涙が浮かんでいる。
「……川崎くん、末広さん。とりあえず、みんなのところへいこう。そして、これからどうするか考えよう」
俺は川崎くんを抱き上げながら言った。
「わかりました……」
川崎くんはもう暴れなかった。

1

 壁一枚へだてて、中学校が見える場所。警備は相変わらず厳しい。川崎くんは応急手当てを受けていた。白い包帯が痛々しい。
「痛い?」
佐々木さんが聞くが、
「全然平気です」
川崎君は力一杯アピールする。
「よし。男の子はそうでなくっちゃね」
感覚が古いとは思うが……それに頭からいってるからなあ。あとでかならず病院につれていかないと。
「ところで……みんな、状況はわかってる? 今、学校には入れない。少なくとも力押しでは全然かなわない」
「俺が身を持って証明してしまいました」
川崎くんが頭をかく。
「他に手段は……」
俺が言いかけたところを、
「警備員まで持ち出したのは、たぶん俺の父です」
川崎くんがさえぎった。
「なんでそこまでするんだろうね……」
「俺にも……」
「川崎くん、おうちには電話したの?」
佐々木さんが聞いた。
「……いえ、何度か電話したんですが、そのたびにいきなり切られちゃって」
「話し合う余地もないのねえ……」
さすがの佐々木さんも苦い顔をする。
「……先生」
生徒のひとりが、俺を見た。
「川崎くんのお父さんは、県議会の議員さんなの、ご存じですか」
「いや」
……んなもん興味ないっちゃ興味ないから、知らなかったよ。
「川崎さんのお父さん……えと、川崎くんがいるから言いにくいんですけど」
「いいよ、言えよ。俺は親父につげ口したりしないから」
川崎くんが言った。
「選挙の時はいいませんけど、すごい差別主義者だって、お父さんが言ってました。わたしたちも同和問題勉強したんですけど、どこにそんな問題があるのかな、なんて思ってたら……こんな身近なところに」
「ああ、あれか」
川崎くんがぽんと手を打つ。
「『あの地区へいくと身がくさる』とか、『チョウセンジンはチョウセンに帰れ』とか、酔っぱらうとよく言ってた」
……本気か。
「俺、父さんの言うことだからきっと正しいと思ってたんだけど、同和問題やったときに、もしかすると間違ってるかもしれないとは思った。でも、なんで……?」
「うちかな」
鮎川さんがつぶやいた。
「うちも長田区の子やしな……」
それで、わかる人にはわかるのだろう。
「……そんなのいやですよね」
発言の主が言う。
「ほんとはいややけど、そんなんばっかり言われ続けたら、根性もゆがむで」
自嘲気味に、鮎川さんがニヤリとした。
「それでも。鮎川さんは鮎川さんだもの」
「……それもいっぱいいわれたん」
「そう……ですか……」
みんな、しゅんとなる。こうやって勉強していくんだ、みんな。学校で教わるのは、学科だけじゃないんだよ。

「となると、正攻法は無理っぽいわね」
佐々木さんが話を変えた。
「ゲリラ戦法でもやるのか?」
俺がニヤリとすると、
「やりましょうか……」
佐々木さんがニヤリと笑う。以心伝心。
「でも、どうやって?」
……残念、つたわってなかったか。
「ナニ、かんたんなことさ。警備員は、敷地の外まではそうそう出てこないと思う」
「それで?」
「みんな、二列に並ぼう。卒業生の人が出てくるところを、人で道を作るんだ」
「……なる」
簡単だろう。
「いけるね?」
「やりましょう、先生!」
力強い返事が返ってきた。

「そろそろかしらね」
佐々木さんが時計を見た。
「あ、出てきた」
誰かが卒業生の列を発見したらしい。
「うし、いくぞ!」
……誰が指揮を取るでもないのに、生徒たちは4列になっていた。沸き上がる歌は、あれだけ練習した『切手のないおくりもの』ではなく、中学校校歌だった。
「……うち、歌われへん」
鮎川さんが少し悲しい顔をする。
「だったら、みんなの援護に回ろうか」
俺は努めて明るい顔で言う。
「なにするのん?」
「卒業生のみなさんを誘導すること。できる? もう佐々木さんが行ってるから」
「……行ってくる!」
言うやいなや、鮎川さんはかけてゆく。俺も急ぐ。
……案の定、警備員が出張ってきてたから。
「困るよキミたち! こういうことされちゃ!」
ジュラルミンの盾を持った、屈強な男たちが立ちふさがろうとする。
「なんでですか?」
「われわれはここの警備をまかされている。その妨害になるようなことは……」
「中にははいりませんよ。それならいいでしょう?」
「……なに?」
警戒心がむきだしになる。
「それ以上のことは言っていません。われわれはあくまで学校の外にいます。それが何か?」
「……原則は原則だ。好きにしたまえ、中にははいるなよ。いいな」
どうやら、警備隊でもえらそうな人が、あっさりと引き下がった。
「まったく、たかだか中学の卒業式で、なんでここまで……」
ぶつぶつと言うのが耳にはいる。ご苦労様なこって。

 生徒たちは歌を続けていた。
卒業生の中からも、声が上がっているようだ。
「……付属中学校、われらの魂ここに」

「ありがとう!」
ひときわ大きな声が、卒業生から上がった。
「ことしはなしかと思ったら、こんなところで待っててくれたなんて、……絶対忘れないよ!」
女の子たちのすすり泣きが聞こえる。
「……よかったな」
「ええ」
佐々木さんがいつのまにかとなりにいた。
「ゲリラ作戦、成功ね。簡単なことには違いなかったわ。でも……それを実行にうつせるだけの、意思の力、それは、わ――」
「みんながもぎとったんだよ。みんなでつかんだんだ。せいぜい俺は、きっかけを与えただけさ」
誰のでもない。あのクラス、みんなでつかんだ思いなんだ。
「ふ、かっこつけちゃってさ」
「佐々木さんこそ、何を言おうとしたのやら」
「さーてね。……あ、そろそろ解散した方がいいかしら」
「何?」
「ほーら、あんなところに黒い車……」
……川崎議員、どこまで悪党なんだか。
「みんな、悪いけど送る会はこれで終了だ!」
俺は大声をあげた。
「最後に万歳で送ろう! 万歳!」
「万歳!」
卒業生たちは名残惜しそうにしていたが、俺たち在校組は、また壁の向こうへ身を隠さざるを得なかった。

2

「みんな、お疲れさま」
「はーい」
俺と佐々木さん主催で、お疲れさまパーティーをやることにした。場所はまたもや寮の食堂。パーティーといっても、貧乏学生の出資だから、コップ一杯のジュースにお菓子が少し。それでも不満が出ないのは、充実した時間を過ごせたという満足感だろうか。誰も彼もが、いい笑顔をしていた。
「佐々木さんも、おつかれさま。本当にいい仕事したと思うよ」
俺はジュースを佐々木さんに注ぎながら、労をねぎらった。
「そう? ふふっ、ありがとう」
佐々木さんも一仕事終えた風情で、やっぱりいい笑顔だった。
「これでね、合唱に興味を持ってくれる子が出ればいいなー、なんてね」
「あ、好きなんだ」
「うん、もちろんよ。あたし自身も月2回だけど練習してるし。フラウエンってとこ」
「ふーん」
ドイツ語で frauen とは『女』の複数形である。安直。
「……結局、『切手のないおくりもの』は歌えなかったわね」
「うん……残念」
鮎川さんが同意する。
「鮎川さんは校歌歌えなかったからな、残念ちゃ残念だろ」
「……しゃあないんはわかってるけど、みんなの結束の証やもんなあ」
俺は鮎川さんの頭をわしゃわしゃと撫でてやった。
「わ、なにするん」
「それだったら、これから覚えたらいいじゃないか。校歌」
「……いわれんでも」
「な」
「……うん」
鮎川さんがうなずく。
「佐々木さんに特訓してもらうか?」
「えー、かなん」
鮎川さんがかぶりをふる。
「こら、あずさちゃん、どういう意味かしら?」
佐々木さんが鮎川さんを小突く。
「だって佐々木先生の特訓、きっついねんもん」
「……そうなのか?」
「しょうがないじゃない、1ヶ月でなんとかしなきゃいけなかったんだから」
佐々木さんがわたわたと言い訳するのを見て、俺と鮎川さんはつい吹き出してしまった。
「なによー、あたしだって一生懸命なのに」
「いや、わるい、そのとおりそのとおり」
フォローフォロー。
「もー」
「おねえちゃんには感謝してるで。ほんま」
鮎川さんもフォローにまわる。
「うそっぽーい」
「ほんまやてー。なあほんま。な」
「ならあとで校歌の特訓ね。若葉くんもいっしょに」
お、俺も?
「……うわ、墓穴やった。どないしょあんちゃん」
「お手柔らかに」
「うふふふ」
佐々木さんのニヤリが出た。
「……はぁ」
「……にゅうぅ」
俺も鮎川さんも言葉をなくした。かなわんとはこのことだな。

 ふと見ると、川崎くんがひとりでぽつんと座っている。
「どうした?」
俺が声をかけると、
「……俺のせいで、いろいろ迷惑かけちゃって。すみませんでした」
「もういい。何があっても、終わり良ければすべてよし、だ」
俺は川崎くんの髪をわしわしと撫でてやった。
「はい……」
「それに、その言葉を、一番言わなきゃいけない人がいるだろう」
「え?」
川崎くんは顔をあげた。
「末広さんに、あいさつしてこい。おまえのできることはまだあるんだ。なんにもせずに後悔するくらいなら、やれることやってから後悔しろ」
俺は川崎くんの目を見た。
「俺は……何にもできないうちに後悔させられちまったから」
「先生、俺、行ってきます!」
川崎くんは立ち上がった。
「……末広! ちょ、ちょっと話があるんだけど、い、いいか?」
「うん、なに、川崎くん……」
委員長が笑顔でふりむく。
「俺、末広……いや、智子のこと好きだ」
「か、川崎くんっ」
突然のできごとに、寮の食堂は静まり返る。委員長の顔が赤くなる。
「でも、ずっと言えなかった。いつでも言えると思ってたら、言えなかったんだ。でももう言えなくなっちまう、その前に!」
そこで川崎くんは一度、深呼吸をした。
「智子、好きだ! おまえのためなら、俺は、おまえのために、俺は……」
言葉につまってしまったらしく、川崎くんは真っ赤な顔でわたわたと両手をふった。
「……川崎くん……ううん、幸宏」
委員長はゆっくり、川崎くんのほうへ歩いていった。そして、ぎゅっと、音がするくらい、川崎くんを抱きしめた。
「ずっといっしょだったから……わたしも言わなくてもわかると思ってた」
「智子……」
川崎くんの両手が、委員長の背中に届いた。
「幸宏……うっ、ぐすっ……」
委員長の目から涙がこぼれた。
「泣くなよぉ智子……」
そういう川崎くんも、鼻声だった。

 ……パチパチパチ。
拍手。小さな拍手は、やがて大きくなって、食堂全部を埋めつくした。とりのこされたのは、事情のわかってない佐々木さんと、鮎川さんと、俺だ。
「よかったなー」
「ほっとしたよ。くっつく人がくっついて」
……あーなるほど、いわゆる『公認の仲』だったわけね、当の本人が気づいてなかっただけで。
「ううむ」
佐々木さんは難しい顔をしている。
「あれだけ見せ付けられるとムカつくわね。中坊のくせに」
「おねえちゃんのいけず。中学生かて、女の子やもん、恋くらいするよぉ」
鮎川さんが妙なふくれかたをする。
「まあまあふたりとも。……せめて祝福してやろうじゃないか、なあ」
「うー」
「むー」
「……妬いてる?」
「うー」
「むー」
……なんともはや、嫉妬というのはちと怖いものだ。

3

 終業式は卒業式のあとにあった。

 卒業式の事件について、校長は何も触れなかったらしい。憤慨した鮎川さんが俺に食ってかかるが、どうともしようがない。学校側としては、校舎の外で起こったことである以上、見てみぬふりをするくらいが関の山なのだろう。これ以上コトを荒立てて、川崎議員殿の心証を悪くしてもどうにもなるまい。

 あの事件のあと、川崎くんは家に戻った。相変わらず父親は口をきこうとしないようだが、母親はあの子を少し見直した、と言っていたらしい。やるときはやるのね、と。

「これでしばらく自由やぁ」
終業式が終わったあと、ふいと、寮の俺の部屋に、鮎川さんが現れた。
「あれ? 野庭のあんちゃんは?」
「野庭か? 実習つか、患者だと。休みもなんもないみたいだぞ、医者の卵ってのは」
「うわ、しんどそ」
「帰ってきたらせいぜいねぎらってやってくれ」
「ええで」
鮎川さんがうなずく。
「……ところでな、あんちゃん。これ、要る?」
そういって見せてくれたのは、鉛筆書きの譜面だった。
「これ……あ、『切手のないおくりもの』」
……それは、瀬名あずさの手書きの譜面そのものだった。コピーじゃない、本物を持っていたんだ。
「うん。……これ、にいちゃんが持ってた方がええかなて」
「なんで?」
「だって……瀬名のおねえちゃんて、若葉のあんちゃんの彼女やってんやろ? その思い出の品やねんで」
鮎川さんが寂しそうに言う。
「でも、鮎川さんの思い出の品でもあるんだろう?」
「うん」
「だったら、キミが持っていればいい」
「でも……」
「いいんだよ。俺にも、あの子の思い出なら、たくさんあるはずだから」
「……ええの?」
鮎川さんは少し悲しそうな顔をする。
「うん」
俺はうなずいた。
「ほな……ずっとだいじにする。うちの宝物にする」
鮎川さんはうつむいてしまった。
「そっか……ありがとう」

「ほなあんちゃん……これ、もっかい見てみ。これ、裏にな……」
裏にはこう書いてあった。
『幸仁のために』
「この字、あんちゃんのことやってんね……」
「俺の名前、今まで知らなかったのか?」
「うん」
……そういやずっと、教えてなかったっけな。
「なんか、うらやましいわぁ。瀬名のおねえちゃんが……」
「……そうかい?」
「うん、好きな人に名前で呼んでもらえるんやもん。『あずさ』――って。うちもいつか、呼んでほしいねん、名前で。……あんちゃんに」
そういうと真っ赤になった鮎川さんは、照れ隠しにか、あはははと笑いながら、俺の肩をばんばんと叩いた。
「いててて」
その拍子に、机の上においてあったものが床に転がった。
「あ、あ……あんちゃん、ごめんなぁ」
あわてて片づけようとした鮎川さんの手が、ふと止まった。
「これ……は……」

 なくしたはずの写真。
あずさと俺とのツーショット。

「……おねえちゃん」
鮎川さんの手が、写真を拾い上げた。
「これ……いつのん?」
「……それが最後のデートだったなあ、結局……。正月に田舎に帰ったときの。ほら、バックが雪だろう?」
「あんちゃん、あずさおねえちゃんの写真もかざってへんの?」
鮎川さんの口調が、詰問口調にかわる。
「……あんまり置いておくと、思い出すから」
「そんなんあかん! あんちゃんが忘れてもうたら、おねえちゃんのこと、誰が思い出すのん!」
鮎川さんが叫んだ。
「誰からも思い出されへんかったら、ほんまにおねえちゃん、死んでまうやん……」
鮎川さんの目に浮かんだ涙を、俺はそっと払った。
「だいじょうぶ、絶対に忘れはしない。俺の一番大切な人だからね」
「でも……」
「でも、いつまでもあいつのことばかり考えてるのも、あずさは望んでないと思う」
……あいつはそういうやつだったから。
「『あたしのことばかり見てなくてもいいから、幸仁は幸仁の道を歩いて。あたしもあたしの道を行くから』……。あいつはそう言い残して、神戸へ行ったからね」
「あんちゃん……ふられたん?」
「違うと思うけど。毎日電話してたし。それにほら、時々はデートしてたし」
「ほな、なんで?」
小さな鮎川さんには、まだわからないのかもしれない。
「おねえちゃん、あんちゃんより夢えらんだんやで?」
「俺とあいつは約束をしたんだ」
……そう、ずっと守り続ける約束。たとえあずさがいなくても。
「4年後に、お互い惚れ直すくらい、いい男、いい女になっていよう、ってね。だから、俺もあいつも、夢のために、道を選んだんだ」
「……」
「あいつは夢の途中でいなくなっちまったから、俺はその分、あいつの分までも、夢をかなえていかないといけない。だから、いつまでもあいつのことばかり考えているわけにもいかないんだ」
「……あんちゃん」
「かっこつけすぎかな?」
俺はポリポリと頭をかいてみた。
「ううん、そんなことないで! なんかうち、惚れ直したわ……って、その、あ」
鮎川さんの顔が赤くなった。
「え、そのあの、そ……そうや、近所のたよりになるあんちゃんとして、な」
わたわたと言い訳をする。
「そっか……えと、こういうときは、『おおきにな』だったね」
「う、うん、うちこそ、おおきに」
冷や汗をかきながら、鮎川さんがぺこっと頭を下げた。
「ほほほ、ほな、ううう、うち、も、もどるさかい〜〜!!」
鮎川さんが大あわてで俺の部屋を出る。ちょうど帰ってきた野庭とぶつかりそうになりながら、階段を転げ落ちそうな音を立てながら。

「どうしたのあの子……?」
「さあ」
俺はとぼけるだけにしておいてあげた。

あとがき

 『クリスマスの歌姫』完全版の少し物悲しい結末に対して、『フォローしてやれ!』との意見が寄せられまして、なんとか救済の道を考えました。

 ちょっと要素詰め込みすぎかもしれないですし、難しい話まで突っ込んじゃって、どーしよーかとも思うのですが、あくまでライトノベル。このへんでお開きにしたいと思います。

 それではまた、もし機会がありましたら。